適量の孤独 | ナノ


そんな都合の良い感情 弐


古時計がボーンと鈍い音を立てる。
閉じていた瞳を開けば、こちらを品定めしているかのような女将の視線とかち合った。

「答えは出たかい?」

その問いはまるで挑発である。
こちらの心などお見通しと言わんばかりの対応に、何故か意地を張りたくなった。
正確には、意地を張らなければいけなくなった。
無言を貫けば肯定していることになると分かっていたからだ。

「儂は綱手一筋!他などありゃせん」
「……」

綱手がいて沙羅がいる。
それは認めなければいけない事実だった。
しかし儂には沙羅に向き合う資格がない。
いや。資格がないと言いながら、あの瞳に囚われ身動きが出来なくなる自分を恐れているだけかもしれない。
どちらにせよ、女将の問いに沙羅を選択することは出来なかった。

再び舞い上がる紫煙は、女将の盛大な溜め息を乗せて宙を漂っていく。

「酷い男だとは思っていたが、ここまでとはね」

随分な言われようである。
こちらがどれだけ沙羅のことを考えているかなど知りもしないのだろう。

「随分な言われようだのォ」
「お前が言ったんじゃないかい。心にいるのは綱手姫だけだってね」

自分の口から出た言葉のはずだが、他人が口にするとどうもニュアンスが違う気がして仕方がない。
女将が言うからだろうか。

「そこまで言っとらん!ただ儂が好いてるのは綱手であってあいつでは…
「それさ」

言葉を遮る声音に、妙な威圧感を感じたのはビシッとこちらを指す煙管のなせる技なのか。
女将自身の圧なのか。
その答えは、悩む間も無く直ぐに知ることが出来た。

「お前の心には綱手姫だけじゃない。あの子もいるのさ」
「……」

「口では綱手姫と言いながら、態度はまるっきり違うじゃないかい」

ごもっとも。
ぐうの音も出ないとはこのことだ。
本当に女将には儂の心の内などお見通しだったらしい。
それでも、儂とてこれは引けない類の話だった。

「それでも、儂が選ぶのはあいつじゃない」

この心が沙羅を選ぶことは無い。
選んではいけない。
伸びてもいない爪が掌に食い込む感覚に、知らず身体が硬直していたことを悟る。
己に言い聞かせるように呟いた言葉であるはずなのに、何故か自分が動揺するという心底居心地の悪い状況が出来上がった。

「お前、あの子をどうしたいんだい」

どうしたい。
悪くなった居心地が更に輪を掛けて悪化の一途を辿る。

「そりゃぁ、幸せになってほしいのォ」

これが答え。
これが儂の出すべき最善の答案なのだ。
そう。これが正しい。
正しいはずなのだ。
儂の中にある沙羅という存在が暴走する前に、手を打つ必要がある。
居心地の悪さを解消しようとした事が、無理矢理声を明るく取り繕うことだとは我ながら呆れる。
女将もそう感じたのか、まるで子供を叱る親のような瞳を湛え、ふっとニヒルに笑んだ。
まるで、『何を馬鹿なことを言ってるんだい』とでも聞こえてきそうな笑みである。

「随分虫の良い話じゃないか」
「虫が良い……?」

予想してもいなかった女将の言葉に、水を飲んでいたはずの口内がざらりと合わさる。
動揺でふるりと手が震えた。

「お前さん、罪滅ぼしだか何だか知らないが、そんな口実で会いに来てあの子がどんな気持ちになるか分かってるのかい?」

ズキリと、まるで心の臓に刃物を突き立てられた気がした。

「あの子をなめるんじゃないよ」

一段と低くなる声音。
真実を目の前に突き出される人間の気持ちが今になって分かる。
空気に縛られるのだ。
そして己の中にあるものと向き合わざるを得なくなる。
目を背けようなんて浅はかな考えが過る余地すら与えて貰えはしないのだ。

儂は決して沙羅を軽んじていたわけではない。
むしろその逆である。
大切だからこそ、己が犯した罪と向き合わなくてはいけないのだ。
だからあの手を取ることは出来ない。
絶対に。

「抑制が効く以上、お前の中にあるあの子への想いは欲でしかないんだよ」
「欲」

もう思考することに疲弊してきた脳内に、されども女将の寄越す言葉は刃物の如き鋭さで切り込んできた。

「あんたはあの子で自分の何を満たしたいんだい?」

「あの子に、何を期待してるんだい」
「!」

期待。
その言葉に、頬をバチンとひと叩きされた気がした。
そんなこと、考えたこともなかったからだ。
儂は己の仕出かしたことの罪を償おうと沙羅に目を掛けてきた。
だが次第に、その真っ直ぐな瞳に慄きながら誰よりも惹かれている自分がいることにも気付いていた。
女将は、儂が沙羅の元へ通う理由を罪滅ぼしなんていう体の良い言葉で包んでいたことを気付いていたのだ。
そして、儂の心の奥底にある感情すら見抜いていたのだ。

許されたい。

そんな都合の良い感情を。





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