適量の孤独 | ナノ


人間皆こんなもの 肆


無意識に出た小さな舌打ち。
唇の端を咬む悪い癖にも、今は快感が走る。
自分から擦り寄る刺激では満足出来なくなった私は、押し倒さんばかりに全体重をその胸に預けた。
案の定、その流れに乗せて壊れ物でも扱う緩急材のように倒れていく身体。
綺麗な白髪が不恰好に散らばっていく。
余りにも簡単に倒れていく存在。
光に邪魔されながら尚も見つめ続けてくる視線に、また小さな舌打ちが口内で広がった。
徐々に間隔を空けぱらぱらと鳴る雨の音すら、もう耳には届いていない。
眼下にある引き締まった筋肉質の左足に、着物からはだけた太ももを擦り合わせすとんと跨る。

瞬間、視界の隅で武骨な手が僅かにぴくりと反応を見せた。

「……」

注視していなければ分からないほどのそれに気付いてしまった思考は、どくりと心の臓を跳ね上げさせた。
無意識に彼の羽織を握り締めた手も脈を打つ始末である。
悲しいわけでも、恥ずかしいわけでもない。
ならば。

私は、喜んでいるのだろうか。

手順を踏んだ思考かどうかは怪しいが、この感情には覚えがあった。
私の愛する人が与えてくれる、一番大きな感情だ。
残酷なまでに優しい、愛する人が与えてくれる感情。

もっと。

もっと。

口に出して求めたことは無い感情が、こんなところで底無し沼のように足を絡め取って抜け出せなくさせていく。
分かってはいたが、今の私は酷く醜い。
しかし、化けの皮を剥いだら人間皆こんなもの。
そう単純に開き直れたのは、やはりお酒のなせる技なのだろうか。
自嘲にも似た笑みが浮かんだが、身体は至極正直ものだった。
上体を起こし、鍛え上げられた身体の軸をすーっと腹まで撫で下す。
衣服越しに伝わる体温に近くに人がいる安心感と、それが愛しい人である喜びに唇を近付けた。

まるで、鳥が嘴で餌を啄ばむように。

少しずつ、少しずつ。

腹から胸へ、そして鎖骨へ。

湿気のせいか、慣れぬ状態のせいか。
しっとりと汗ばんだ肌は、衣服を啄ばみ水分を奪われた唇に違和感なく吸い付いた。
当たる鎖骨を喰めば、それがこの人を象っているものだと実感し、また手が一つ脈を打つ。
どくりどくりと身体が鼓動を重ねていくのを感じながら、両腕は白髪を押し潰すことも御構いなしに四つん這い動物の如く腕を顔の両脇へとついた。
輪郭を視界一般に収められる距離から真っ直ぐ見下ろせば、ぱさりと落ちる黒髪。
視界の端で、白紙に墨汁が流れ出したように黒髪が白髪の海に広がっていた。
流れ落ちる髪に光を遮られた視界は暗さを取り戻し、世界を二人だけのものにする。
暗さによって霞の消えた黒曜石。
やはり何を思っているのかは、全て理解しきることは出来ないのだろう。
瞳は、複雑な色を帯びていた。
見つめ合うだけのその時間に、宇宙を思わせる黒曜石の奥を通して今までのことが走馬灯のように思考の奥を流れていく。


私の脚も。


彼らも。


三代目も。


私を知る人間が消えていく。

瞬きを忘れた瞳は吸い込まれるようにして宇宙へ近付いていく。
目と鼻の先。
あなたの吐いた息を私が吸って、私の吐いた息をあなたが吸う。
そんな距離で生きることなど出来ないと知りながら、その空気すらも奪おうと宇宙への距離を縮めた。

瞬間。




「助けて」

漏れたのは、切れそうな糸のようにか細く震える自分の声ならぬ声。
数秒間隔でしか聞こえなくなった雨にも負ける、弱々しい声。

「……」

再び訪れる沈黙の中、まるで言葉に出来ないものが零れ落ちるように、ぽたりと一雫。
小さなしわが入る切れ長の目尻に落ちたそれは、するすると耳へ流れ落ちていった。



「沙羅」
「……っ」

名前を呼ばれたのが契機であったかのように、私は崩壊した思考のまま目の前にある温かな胸に何もかもを押し付けていた。



助けてと言葉にすることは、
こんなにも苦しいものなのだろうか。





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