適量の孤独 | ナノ


人間皆こんなもの 参


「……」

雨に溶けて消えた溜め息を追うように、外へ視線を向ける。

雨は止まない。

静止も一瞬。

繰り返してきた行為を再び始めるために、重い手を持ち上げた。
口を付けた御猪口から、喉や鳩尾に伝わる不快感が無いことに中身が空だと気付く。
酒瓶を持ち上げれば、もう随分と軽くなっていた。
何度そうしたか分からないが、並々と注がれたお酒を目に、煽る。
そして、えずく。
汚いとか汚くないとか、もう思考の領域はそんなところにはなかった。
ただ本能に従う、まるで動物にでもなったかのように。
飲んではえずき、えずいては飲む。
この不快感と快感に、私は海に沈んでいくように飲み込まれていくのだと思った。

それでいい。

それでいいとさえ思う。

しかし、乱暴な足音が鼓膜を震わせた次の瞬間には、ぐらりと身体の軸が揺れこの手から御猪口が消えていた。
正確には、滑り落ち畳へ転がっていたのである。
溢れたお酒が着物にしみを残し、畳には小さな水溜りを作っていた。
滑り落ちた御猪口の代わりにあったのは、手首を力強く掴む大きくて武骨な人の手。
込められた力に、手先から血の気が引いていく。
緩慢な動きしか出来ない腕は、その手に抗うことなく重力に従った。
規則的に喉へ与えられる刺激が無くなったことに、ぴくりと指先が震える。

飲まなくては。

そんな衝動に近い何かに突き動かされ、落ちた御猪口を視界に入れ脳が与える命令にだけ従い手を伸ばした。

いや、伸ばそうとした。
けれど、この手は手首を掴んだ人物により畳へ縫い付けられたまま微動だにしなかったのである。


「……飲み過ぎだ」

耳元で聞こえたその声音に、ぞくりと背筋を這い上がる快感に似た何か。
溜まった熱を吐き出すように小さく息を吐きゆるりと顔を動かせば、なんと形容したらいいのか分からない複雑な顔をした自来也様がそこにいた。
黒曜石の瞳には、これまた形容し難い自分の顔が情けなく映り込んでいる。
だが、そんな情けない自分などもういくらでも見てきた。

今は、それどころではない。

雨が、恐怖が、身を寄せようと直ぐ近くまで迫ってきている。

早く不快感を、快感を。

この身体で感じなくては。

手首に集まる熱にざわざわとした感覚が浮かび上がる。

そう、これだ。

お酒を飲めなくなったなった私は、代わりに手首を抑えるものに刺激を求め始めた。
大きくて武骨な手が誰のものか分かった上で、まるで蛇の如くそろりそろりと押さえ付けられている手とは反対の手を重ねる。
見つめ合ったままの強い意志を秘めた黒曜石の奥が、ゆらりと揺れた。
離さないでとばかりに関節にそって指をなぞっていく。
相手が抵抗しないのを良いことに、そのまま枝に巻き付く蛇の如く、若草の着物に覆われた腕を緩慢な動作で白い手が這い上がる。
着物が捲り上がるのも、鎖帷子に引っかかる爪も気にせず、重怠い身体を操ってガタイの良い肩まで辿り着く。
腰を浮かせた身体は空気の流れに寒気を覚え、身を震わせた。

馴染んだ畳に膝を立てれば、当たり前のようにぐらりと回る視界。
よろけたことを酔いのせいにして、目の前にある広い胸板に重心を預けるように手をつく。
見つめ合ったまま、圧力にすとんと腰が落ちた相手を見下ろす形は不思議な感覚だった。
今まで見たことのない景色に、とくんと動物的支配欲が湧き上がってくるのを感じる。
と同時に、今までの関係では有り得ない距離に、脚の先から手の末端まで麻痺していくようにじわりと熱を持つのが分かった。
こちらの動きに何一つ抵抗しない相手は、それでも瞳を反らすことなく真っ直ぐに私を見つめていた。

ただ、何もしてこないだけ。

この手から御猪口を奪い去り、飲みすぎだと忠告しただけ。


抵抗も、享受もしない。


どうして。

何故。

いつものように豪快に笑い飛ばしてはくれないのだろうか。
いつものように、腰を浮かせた私の脚に切なく歪む後悔の視線を送り、脚を気遣うことをしてくれないのだろうか。

いつものように。

そうしてくれれば、今ならまだ引き返せるかもしれないのに。
空気を読んで、あなたを一番に考えられる、いつもの私に戻れるかもしれないのに。

鐘の音が止み、薄雲の合間から光の筋が一本一本と地上に伸びていく。
まだ湿気過多な薄暗い部屋にもそれは差し込み、畳に溢れたお酒にきらきらと反射していた。
しかし、そんなことにも構っていられないほど、思考は目の前の人物にだけ向けられている。

もし、いつものようにしてくれないのなら。

せめて、受け入れてくれればいいのに。


どうして。

何故。

あなたはただ何もせず私を見つめているのだろうか。

沸騰の際に現れる気泡のようにふつふつと浮かんでくる感情。
反して拒絶も受け入れもしない相手。
もう正常な判断が付かなくなった脳は、私の顔に欲望に忠実であるようにと仮面を被せた。
黒曜石に映る瞬き一つしない野生動物の顔。

抵抗しないのなら。

受け入れないのなら。


私は―――

答えを実行するように、広い胸板についた手を鎖骨から上へと這わせる。
まるで芸術品を鑑賞するような手付きで姿形に沿って肩までの縁をなぞり、そっと筋の張った首筋へ顔を寄せた。
流れる白髪が瞼から頬へと掠めていく。
その気持ち良さに焼かれた喉から吐き出される吐息が、喉仏の辺りを漂った。
伺うように見上げた視線の先には、やはり行為に何の反応も示さない御仁が女一人の体重を預かったまま静止を貫いている。
その瞳は差し込んだ光を反射しているのか、靄が掛かったように霞んでよく見えない。
それでも、返ってこない反応が全てを表しているのは明白だった。

あなたは、何を望んでいるのだろう。

酔って正体を無くす私を止めたかと思えば、酔った私の思うがままになる。

三代目が亡くなった時のように。

父が娘にするように。

この肩に手を添えれば終わるというのに。
こんな茶番劇に、終止符が打たれるはずなのに。

私の手や唇は、容赦なく目の前にいる獲物を捕らえて離そうとはしなかった。



私は、もう戻れない。





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