その恰好悪さに
心底なんて言葉が浮かんだのは、何時以来だろうか。
つい先日顔を見たばかりだというのに、存在を見留めただけでこうも安心するとは。
女将との約束がそんな感情を抱かせたのか、はたまた沙羅の迫力ある真摯な瞳を失うことを恐れたからなのか。
どちらにせよ、荒れた戦場を経て生きていたことに鳩尾がじわりと熱を持った。
熱い。
「沙羅!」
呼びかければゆっくりと振り返る身体。
淡くも気品漂う配色をした半色の着物は、以前沙羅に似合うだろうと呉服の店先で手に入れた物だ。
だが今は戦火を経て擦り切れ汚れ、傷ついた脚を覗かせた裾がゆらりと揺れている。
「無事か」
矢継ぎ早な問い掛けに、紫に漆を数滴垂らしたような深い紫暗の瞳が刹那熱を持ってこちらを見つめ返す。
その瞳が鳩尾に溜まった熱を覆うように、この体から逃げ場を奪っていった。
「はい」
迷いなく呟かれた返事に、寒くもないのに口からはやけに熱っぽい吐息が漏れる。
その熱さに微かに眉根を寄せれば、こちらの表情を伺うようにゆっくりと近付いてくる身体。
ゆらりと揺れる着物の裾を見つめていた視界に、割り込むようにして入って来る華奢という言葉が良く似合う白い腕。
「自来也様は御無事ですか?」
問題ないと答えながら、白い腕がそっと持ち上がるのを視界の隅で捉える。
若草色の袖口にそっと手を添える仕草に、沙羅が本戦会場へ行くと宣言した日が蘇った。
まるでそこだけに神経が通っているかのように、冷たさすら連想させる手が意識を持っていこうとしていた。
しかし、覚えたのはそこから腕を伝って這い上がる熱を持った疼き。
鳩尾で行き場を無くしていた熱が、熱伝導でも起こしたかのように活路を見出しぞくぞくと脊髄に達する。
毒でも盛られたかと錯覚しそうになる思考が、正気に戻れと言わんばかりに耳の奥でパンと音を立てた。
はっと意識を戻せば、間近にある傾城の美姫とも謳われそうな端整な顔がこちらをそっと見上げていた。
薄明かりが占める座敷以外で顔を合わせることが久しく無かったからか、日の下において沙羅の顔がこんなにも血色が良かったのかと驚いた。
薄っすらと浮かぶ額の汗に張り付く前髪に、自身の武骨な手が当たり前のように伸びていく。
この手の行く先が何をしようとしているのかを知っているのか、見上げてくる視線は手など目もくれなかった。
それどころか、身を委ねるかの如くゆっくりと瞼が閉じられていく。
伸ばした手を意識されていないことに安堵したのか、かさつく手が更に重力に逆らって伸びていった。
辿り着いた先、しっとりとした額に触れた指先がその汗を吸い取るようにそっと張り付く。
あまりにも自然なその流れを無意識で行っていると気付いたのは、触れた瞬間蝶の羽のような睫毛がぴくりと震えたからだ。
そして一羽ばたきした後、再び見開かれた瞳を視界に入れ、はっと息を飲んだのである。
「お前……」
見つめる瞳の奥深く。
いつもなら強い意志が宿っているはずの深淵に、今は煙管から昇る煙のような靄が立ち込めていたのである。
近付いてその瞳を覗き込む程見つめても、普通の人間には分からないだろう沙羅の感情。
しかしそれが何を表しているのかを悟ることは、容易だった。
そう。
予感はしていたのだ。
戦争と呼ばれるものが沙羅にどんな気持ちを抱かせ、瞳の奥を濁らせてしまうのかということを。
煙る瞳の奥で、また何も出来なかったと自分の無力を痛感し、その心を痛め悔いているのだろう。
見ていれば分かる。
沙羅がどれほど自身の力不足を呪い、悔いているのかなど。
誰も助けることの出来ない身がどれほどの苦痛を伴うのかを、あの日以来一番近くで見ていたのだから。
それでも、決してそのことを口にしたりはしないのだろう。
それが儂の知る涼城沙羅という人間だ。
強いけれど、誰よりも脆い砂上の楼閣のような女。
崩れまいと必死に零れる砂を掻き集め足場を固めようと躍起になっていた姿は、今でも心が痛む。
何でもかんでも言葉にしなかった代わりに、紫暗の瞳が切々とものを言うのだ。
随分と歳を取ったせいか色々な人間に出会ってきたが、沙羅ほど瞳がものを語る人間と出会ったことがなかった。
だからこそ気付くことが出来たのかもしれない。
何も語らぬ口と、影が落ちた瞳でそっと屋根を見上げる仕草に、あぁこいつは儂らが予期している最悪の展開を想定しているのだと。
屋根に向かい走って行く忍たちを遠目に悟ったのだ。
三代目火影が亡くなったという最悪の展開を。
「沙羅」
幾分低くなった声音で零れた名は、呼ばれた人間を更に近付けさせる。
屋根から戻ってきた視線はこちらを見ることなく、儂の着物の合わせ目を見つめていた。
そんな何でもない仕草に、鳩尾にあたるそこが再び小さな熱を持つのが分かった。
ゆっくりと近付いてくる存在が互いの息遣いの全てを把握出来る距離にまでなると、沙羅は灯った熱を測るようにトンと額を鳩尾に当て若草の着物をきゅっと握ったのである。
ドクンと鳩尾の熱が一つ、その存在を主張するように鼓動した。
「……」
こんな時に。
見て見ぬ振りが得意になっても、この心はそんな主張を認めるはずもない。
眉根を寄せた自身が出来ることは、父親が娘の肩をそっと抱くように肩に手を添えてやることだけだった。
その格好悪さに苦笑が漏れる。
儂は、沙羅の感情から逃げるようにして屋根への一歩を踏み出した。
湿った指先は、もう乾いている。