水魚の交わり | ナノ


04-11



あの後の事はあまり覚えていない。

「逃げて、」

城が沈む、逃げて。

その言葉から先の記憶が酷く曖昧なのだ。
どうやって逃げたのか、どうやって此処まで来たのか。
あの大きな腕に抱えられお荷物として運ばれたのか、それとも火事場の馬鹿力でも発揮して恐怖に慄きながら逃げ出したのか。
何方も都合の悪い醜態であることは間違いないのであるが、この際其れには目を瞑る。命あっての物種、生き死にが関わっていたのだから、逃げ方等大した問題では無かろう。
まぁ、しかし。とはいえ。高熱と凍えるような外気に体が震え、勢いよく殴られた頭に冷静さの欠片もなかったあの時では、私自らの力で城から脱出したというのはどうも考え辛い。
つまりはそういう事なのだろう。拝み倒して感謝しなければならない程の恩を受けた事は明らかだった。

「起きよ」

むくり、起き上がる。
静けさが満ちる部屋の中、誰かが運んでくれたのであろうベッドの中で、重だるい体を持ち上げた。
部屋には誰もいない。予想を現実のものとする為に質問を投げ掛ける相手もいない。
はて、困ったなんて可愛らしさもなく首を傾げてみる。きっと彼らは城にでも行っているのだろう。姫の言葉を信じて、エメロード姫の幻影を探しに行ったに違いない。
物語であれば、この部屋に残るのは本が数冊と村人へ向けた置手紙のみで、寝起きの私なんてものは存在しない。
しかし私は此処にいる。
彼らの服が入った袋が部屋の隅に置かれいる。それは彼らが戻ってくるということで、それは物語とは外れた出来事ということで。
彼が物語を無視して私を城から救い出してくれたように、私も、私自身も、物語を無視して彼らの旅の一行として在り続けている。
そう、なんて事はない話だったのだ。
私の知る物語は、この世界の、彼らの物語では無かった、ただそれだけ。
私の頭の中にある物語は、私なんて言うイレギュラーがいるばっかりに綴ることを諦めた夢物語だったのだ。
高麗国でその事を理解したと思っていたのに、どうやらそれは上っ面の決意、ないしは己の弱い心を守る為の己自身の精一杯な強がりだったらしい。
私は此処にいる。
命の危機に直面して漸く気付く鈍間さを嘲りたい気分だ。頭の痛さも、手先の冷たさも、水の迫る恐怖も、此れから先感じるかもしれない痛みや苦しみも、全てが全て、現実に感じてしまう。その事に、その事を、やっと、やっと実感したのだ。

「あ、れ」

ぽろり。

ぽろ、ぽろり。

大粒の涙が数滴、ぽたぽたと毛布に落ちた。

何に対しての涙か。

何に対しての呟きか。

それを考えられる程の余裕など、私には残っていなかった。


少女、さとる。





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