水魚の交わり | ナノ


04-07



「……もうやだ」

肌寒い冷気と、ずきりと走る後頭部の痛みに目が覚めた私の起き抜け1番の言葉は、なんとも絶望感に満ちた落胆のそれであった。
昨日、昨晩。
蕩けるように暖かい羽毛に包まれ眠ったはずの私は、何故か冷たい煉瓦で覆われた硬い床の上で起床した。
視界の隅に映るのがカビだらけの汚れたベッドで、せめてもの的外れな気遣いを感じ苦く笑う。
否。或いは、十中八九、覆しようもなく、何も考えずに放り込まれたのだろう。
罷り間違っても、カビの棲むベッドへ寝かすことが忍び無かったというわけではあるまい。
兎角私をここまで連れてきた犯人の苦労への労いと、少しの良心に期待し、敢えて床に寝かせることを選択したのだと信じることにする。

さて、ここは何処だろう。

と、問うまでもなくあそこなのだろうけれど。
一応の現実逃避も兼ねて辺りを再確認してみる。
薄暗い室内に気味悪い程に冷んやりとした空気。
部屋を覆う壁はじっとりと湿気っている。
何十年も使われていないであろうベッドの足首は今にも崩れ落ちそうだ。
そこに気味悪く絡みつく鎖が、ベッドと私を繋ぎ止めるかのように私の足首を拘束し、じわりじわりと体温を奪っていくようだった。
ホラー映画に出てきそうなその景色にぶるりと体が震え、錆びかけた鎖がじゃらと硬質な音を立てる。
廃墟に相応しい不気味さを纏った周囲を注意深く観察したことに後悔した。

わかったこと。
ここは間違いようがなくかの金髪美女が子供を慈しんだ廃城であり、現在に至っては馬車馬の如く子供が働く採掘現場であった。
そして、どうやら私はベッドに繋がれ、何処ぞの姫と同じ立場に立たされているらしい。
どうしてこうなった。
がくりと肩を落とす。
その軽い衝撃にすらずきりと走る痛みが存在を主張した。
概ね、おおよそ、概観するまでもなく、この頭部に走る痛みが空白の時間を物語るうえで重要な役割を果たすであろうことは、考えるまでもなく明らかであった。
かの人物が口封じを狙ってやったということは明白であり、またどういうわけか仕留め損ね、或いは自身が手を下すまでもないだろうという判断に至った結果、こうして冷たい床の上で目覚めることと相成ったに違いない。

鈍器で殴られたであろう後頭部を抑え、ふと思考に耽る。
殺されなかった点に於いては、幸運としかいいようがない。
なんせ1度は頭部を殴られているのだから。
つまりはそこに何らかの殺意ないしは害意があり得たわけで、その悪意に呑まれ息絶えなかった私或いは踏みとどまった藪医者がいたことは、それこそ奇跡のような出来事だ。
仮に藪医者が踏みとどまったとして、何故そこで歩みを止めることが出来たかについては疑問が残る。単に怖気付いたのか、それとも単なる気まぐれか。

しかし今はその有り得たかもしれない未来について考えていられる程暇なわけではない。
確かな時間を知ることは出来ないが、1日もしないうちに訪れるであろう城の終末を考えれば、ここでゆったりしている暇が無いことは、誰の目から見ても明らかであろう。

私がとりわけ急いでしなければいけないことは、城から脱出。
それだけである。

出来るとは思っていない。

何せ地理感も無ければ、ズキズキと痛むつい先程発覚したばかりの頭痛を抱える身である。
余程の運と底無しの体力が無ければ辿り着けまい。

しかし、だからと言って諦める訳でも、自力で脱出しようとも思っていない私の不甲斐なさ、もといどうしようもなさを言及する場は今後設けるとして、今現在に至っては、
もっぱら弱っちい使用人を、物書きの妹を探すついでに拾いに来てくれるかもしれないという可能性を信じて、何とか見つけられやすい場所に向かうこと。
それこそが目下私が取り組まなければならない事柄であった。

ぐるりと視線を回し何かを探す。
それが何かは知らないが、何かがあればいいと視線を巡らせた。
力尽くでベッドの足を破壊して鎖を外し、シーツを使って扉の鍵を外せばいいと知ってはいたが、何せこんな状況に陥ったのは初めてである。
頭の整理ができるにつれてがたがたと震えだす体は、もはや私の制御が効くものではなかった。

かの姫は私とは違う。

運も行動力も決断力も生命力も、何もかも。

彼女がこの牢屋の様な部屋から出れたからと言って、私も同じくして出れるわけではないのだと、体は盛大な震えでその事実を私に突きつけた。

「大丈夫…私には」

これがある。

その怯えに負けまいと、飲み込まれまいと、そう言い聞かせるように震える手でドレスを握った。
血の気が引く程に握られた指先は白く、元から血色などあって無いようなものであった私の手の平は、さめざめとした青白い色を晒す。
そっと添えた手に感じる、ドレスの布切れ越しに伝わる硬質な物体の存在を認知して、そっと息を吐いた。

ドレスの中にひた隠しにしていたもの。

それは中国とは似て非なる高麗国で手に入れた物。

自慢の長く艶やかな髪を対価に手に入れた、なんてことはない唯の鉄塊。
片手に収まる小さなタンクには酸素が積まれ、密閉された部屋であろうと、隔絶された湖の中であろうと、ほんの少し、他者よりもほんの少しだけ生き延びる時間が長くなるだけの、鉄の塊。
もう残りの酸素はそうないに違いない。
なにせ生きている人間から爪をべりと剥ぐように、生きている魚から鱗を剥ぐのに大分使ってしまったのだ。
荒れた呼吸をすれば酸素だって無駄に消費されたことだろう。
この廃城に招かれる予定などとんと無かったために、後は機を見て売り払うばかりと早とちりしていた嘗ての自分にどっと嫌気が差した。

はぁ。

陥りそうになった厭悪の沼から逃げるように深く息を吐く。

危ない。

気を抜くとすぐにでも自分を卑下する方向へと走ってしまう性格に喝を入れる。
自分を厭い底深く意識を沈ませることは良くあることだが、生命の危機に晒されることなど今までの人生で一度たりとも無かったのだ。
まず取り組むべきことが自己嫌悪か危機回避かなど、わからないはずもなく、またその分別がつく程度には己を猫可愛がりしていた私は、ため息を吐くと共に震えと私念を身の内へと押し込めた。


生きて帰る。

ではなく、


生きて彼等に見つけられること。

それが今の私にできる精一杯の生き逃れだった。





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