会いたくて | ナノ


触れる


時の流れは、いつも早い。

ついこの間お墓参りをしたはずなのに、また今月もその日が明日にと迫っていた。
しかし先月と違うのは、既に手元に用意されている百合の花と、カレンダーの日付横に余る空白。
シンプルに日付を丸く囲った周りには、申し訳なく小さな字で入れられる用事は無かった。

「よし、明日の準備はこれでよし」

お店の片付けとお墓参りの準備をし終わる頃には、夜も更け少し欠けた月が仄かな輝きを纏っていた。
最後に暖簾を下ろそうと外へ出てその優しい明るさに気付けば、ふと思い出すのは「そっか」と目尻に皺を寄せたあの笑顔。
はたけさんならこの淡くも闇に映える月が良く似合うのだろう。
そんな想像をして小さく漏れた笑み。
蘇る温泉の記憶を、瞳を閉じ頬を撫でる柔らかな風に引かれそっとなぞっていく。
すると、知らなかった彼の姿を垣間見ることの出来た少しの喜びと共に再びあの感情も蘇ってきた。
鎖骨を漂った、あのもやもやである。
その正体は結局のところ分からなかったが、アンコさんに腕を取られ前を行ってしまうはたけさんに、ほらね。の意味を答えてもらえなかったからだろうと思っていた。
だから次に彼に会った時はその答えを聞こうと決心していたのだ。
しかし温泉後、遅い花見客やら何やらと慌ただしく仕事に追われたせいで、すっかりとその決心は頭から抜け落ちていたのである。

「今度会えたら聞いてみよう」

ぽつりと呟いた声は誰に届くでもなく宙を漂い、ひらりと靡いた暖簾に攫われていった。


翌日。
まさかこんなにも簡単に会えるとは思っていなかった私は、まだ朝靄が漂うお墓の近くで偶然にも出くわしたはたけさんを前に目を丸くしていた。

「やぁ」

もうだいぶ耳に馴染んできているお決まりの挨拶。

「こ、こんにちは!」

百合を抱えたまま頭を下げれば、頭上からは「やっぱり此処か」という呟きが降ってきた。
それに、え?と答えてしまったのは反射に他ならない。

「この前、温泉行ったでしょ?あの時、涼城さんから百合の香りがしたからもしかしてと思って」

そう墓地を眺める視線に、私はふと既視感に似たものを感じたのである。
それが何であるかは、直感的なものが作用したのか直ぐに思い出すことが出来た。
温泉に行った日、出入り口ではたけさんから向けられた、ただ見られているという名を付けた視線。あれは、私が温泉に来る前に墓地に寄っていたことを察していた視線だったのだ。

「両親の……お墓があるんです」

見届けることの出来なかった両親の白骨のような白さを誇っているのだろう百合の花束を抱え直す。
どうして両親のことを話そうと思ったのかを、この時の私は理解していなかった。
ただ、気付けば口からするすると零れ落ちていたのだ。
誰にも語ったことのない両親の死を。
祖母は私のことを気遣い両親が無くなったことを知ったあの日以来、一度もこの話題を口にしたことはない。一休の常連さんも皆子供だった私を可哀想にとは思えどそれを口や態度にする人はいなかった。
皆何事もなかったかのように、
「沙羅ちゃん、美味しいお団子出来てるよ」
「沙羅ちゃんは今日も元気だね」
そんな言葉を掛け続けてくれたのだ。
だからこそ、こうして両親の死を受け入れることが出来たと思っている。
そんな受け入れた両親の死を、私は今横で同じように墓石群の並ぶ風景を眺めているはたけさんに話そうとしていた。
遠くを見つめる瞳に関心を持たれていないと安心したからか、はたけさんの優しい気遣いを知り、目尻に寄る皺に心を解かれているからか。あの日以来口にしたことのない両親の死を、吹き抜けるそよ風に乗せるようにして告げていた。

「私の両親は忍でした」

その言葉にはたけさんはちらりと視線を寄越したが、忍という言葉だけで両親の死に様をある程度想像出来たのか、向けられた視線は直ぐさま墓石群の儚い景色へと戻って行ってしまった。

「ある日、祖母の元に木ノ葉の忍の方たちが書状を持ってきたんです。私はおやつのお団子を食べるのに夢中だったんですけど、何か、とても良くないことが起こったのだけは理解出来ました」

手元から優雅な百合の香りが立ち昇ってくる。
落とした視界が捉えた白は、あの日のお団子のようだと思った。

「暫くして祖母が私に言ったんです。お父さんとお母さんは月のうさぎになったんだよって」
「月のうさぎ?」
「はい。お月見をする時、月ではうさぎがお餅をついているっていいません?」
「……あぁ」

見えない月を探すように空を見上げ、ぺったんぺったんと踊りながらお餅をつくうさぎを思い浮かべる。その愛らしさに母の天真爛漫な笑顔を思い出し、父が私を軽々と持ち上げる柔らかな腕の感触が蘇ってきた。

「父と母は私がこれからも美味しいお団子が作れるようにうさぎになってお月様から見守っていてくれる。祖母は両親の死を優しい物語にして教えてくれたんです」
「……」
「勿論、悲しさや寂しさで泣き喚いたこともあります。でも、私には祖母がいましたし……」

両親を思い出す度に脳裏をよぎるのは、悲しみにくれた私をお団子のように丸く包み込んでくれる祖母の優しさだ。お団子や料理を作り続けて皮の厚くなった指先と、筋肉が少しばかり衰えてふにふにになった腕が泣き喚く私を力強く抱き締める心強さ。
その力強さがどれだけ心を勇気付けてくれていたのかは、きっと祖母には分からないかもしれない。
それでも、ぽっかりと心に空いた穴を皺くちゃの笑顔とお団子が埋めてくれたことは間違いなかった。
私にとって祖母は第二の母であり、これから先恩返しをしていかなければならない存在。
大切な、大切な人なのだ。

「おばあさんが大切なんだね」

ふわりと降りてくる少し低めの言の葉。
思っていたことが言葉として降ってきた事に驚き横を見上げれば、はたけさんの目元には小さな皺が寄っていた。
あの温泉の時の様に。
いや、また別の種類の微笑みかもしれない。例えば、祖母が私に向けてくれたようなお団子のような微笑み。悲しみを吸い取ってくれるようなそれに近い。
じんと胸の内から温かくなる心と込み上げる目尻の熱さに、唇の裏をそっと噛み締めた。
時間は緩やかに過ぎ行き、死を穏やかに受け止めさせる。
それでも、こうして向けられる言葉一つで涙が込み上げ零れ落ちようとするのは、やはり死は悲しくて寂しくて、残された者の心に大きな穴を開けていくものだということだ。

「俺もね、ダチが死んだんだ。昔」
「え……」

そう。死は悲しくて寂しい。
そして誰にでも訪れ、等しく残される者の心を抉っていく。
私だけが経験するものではないのだ。
そんな当たり前を分かっていたはずなのに。それでも、はたけさんの口から発せられた呟きに近い言葉に、言葉を失う他なかった。
何故なら、祖母のように慈愛溢れるはたけさんの柔らかな笑みの裏に、死があたかも当然のように横たわっていることに気付けなかったから。
柔らかな微笑みのヴェールに目を奪われて、はたけさんの抱える本質的な部分に気を配れなかったからだ。
忍の世界は死が付いてまわる。両親のように。
その事実はきっと、お団子ばかり作ってきた小娘が想像も出来ないものに違いない。
分かっていたはずなのに。忍として生きていないというだけで、当たり前のことがすっぽりと頭から抜け落ちてしまっていた。
はたけさんと出会った時、纏う空気の温度が違う。そう思ったことがあったが、その正体は紛れもない忍の空気だったのだ。
両親の纏っていた、任務帰りのどこか闇に紛れ消えてしまいそうな空気と同一のものだと、この時私は初めてそのことに気が付いた。
それが何故だか今は、悔しくなるほどに不甲斐ない。
墓石群よりも遠く、視界には捉えることが出来ない彼方を見やる姿に、亡くなった友達というのが視線の向こうにある慰霊碑で眠っているのだろうと悟る。と同時に、胸をぎゅっと締め付けられるような切なさを感じたのだ。
はたけさんの呟き一つが、どれだけ友達のことを大切に思っていたのかが伺いしれるだけに、どう声を掛けたら良いのかが分からない。
不甲斐なさと切なさに締め付けられた胸に何も言えなくなった私は、耐え切れずにそっと右手を伸ばした。
空気を揺らさずに触れたのは、はたけさんの袖口。
使い込まれ擦り切れたそこが、また忍としての過酷さを物語り伝えてくる。
そっと、されどきゅっと。
言葉に出来ないもどかしさを吐き出すように、袖口を握り締めた。

「……」

はたけさんの視線がちらりと向けられたことに気付きながらも、どんな反応を返せばいいのか分からず閉口を貫く。
ただ、その辛さを少しだが理解してあげられる。
私なんかよりも辛くて苦しい別れをしたのだろうことは、はたけさんの生きる世界を再認識したことで容易に想像が出来た。
だからきっと、理解してあげられると言ってもほんの欠片程度なのだろう。
それでも、手を伸ばさずにはいられなかった。
貴方の悲しみや寂しさ、辛さを理解してあげたい。
昔、祖母が私にしてくれたように、そっと心に寄り添ってもらえる安心感をはたけさんにあげたかったのだ。
言葉は必要ない。
どれだけ言葉を重ねたとしても、きっと上辺だけをなぞったものにしかならないし、そんなものはぽっかり穴が開いた人の心の隙間を埋めるには陳腐すぎることを理解していた。
だからこそ私は何も言わず、袖口を握り締めた手に再びきゅっと力を込めたのだ。

貴方は一人ではない。

そんな祈りにも願いにも似たような心を込めて。
はたけさんに聞こうと意気込んでいた鎖骨を漂ったもやもやも、この時にはすっかりなりを潜めていた。
代わりに抱いたのは、共感と不甲斐なさ。
そしてはたけさんを理解してあげたいという心。
私はただひたすらに、袖口を握り締める手に願っていた。

どうか、はたけさんの心に寄り添えていますように。
悲しみが胸を打った時、寄りかかれる存在がいることを知っていて欲しい、と。

少し靄のかかった朝の澄んだ空気が太陽の眩しさに分け入られていく。
言葉を失った世界で、百合の白さだけが艶麗なる美しさを讃えまるで聖母のように微笑んでいた。





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