会いたくて | ナノ


湯気のにほひ


結局約束の時間までにあれやそれと用事に追われた私は、温泉の支度もそこそこに家を飛び出す羽目になった。
忍の人たちとは違う自身の鈍足に呆れながらも目的地までの道のりを急ぐ。
紅さんやアンコさんと共に出掛けられることも嬉しかったが、何よりも温泉という響きに胸が躍るのを感じていた。
祖母と行った一度きりの温泉。
のぼせることなどお構いなしにぴちゃぴちゃと湯に浸かり、案の定ふらふらになった私に冷たい牛乳を差し出してくれた祖母の笑顔を思い出す。
そんな優しい記憶に頬が緩みながらも、一生懸命動かした足は目的地までこの身を運んでくれていた。

すると、思ってもみなかった光景に出くわしたのである。


「……はたけさん」
「やぁ」

ぽろりと溢れた言葉を直ぐ様拾ってくれたのか、はたけさんが挨拶と共に目の前で悠然と片手を上げる。
その状況に理解が追いついていなかった思考を読み取ったのか、紅さんが横から言葉を挟んだ。

「二人共暇そうにしてたから誘ったのよ」
「二人……」

そう言われ更に視線を右へ動かす。と、熊がいた。
ぽつりと「熊」と発してしまいそうになる口をぱっと抑える。
ぽかんと開いた口元に何を言葉にしようとしたのかを察したのか、はたけさんがくすくすと笑い指を指しながら「こいつは猿飛アスマ」と教えてくれた。
互いの自己紹介をしたところでアンコさんがそそくさと暖簾を潜っていく。
その勢いに苦笑しながら倣って入口へ向かおうとした時、不意に強い視線を感じたのだ。
敵意とかそういうのではなく、ただ見られているといった類の視線。
辿ればそれは、はたけさんのものだった。

「どうかしましたか?」

顔に何か付いていただろうか。
それとも何か仕出かしてしまっただろうかと疑問に思ったが、彼は「いや……」と零したまますっと視線を逸らし入口へ吸い込まれて行ってしまった。
なんだったのだろう?と疑問に思いはしたが、美容の黒湯で女性陣に紛れ騒いだ頭からはすっぽりと抜け落ちていた。
温泉は昔の記憶通りとても素敵な場所であり、なかでも黒湯は聞きしに勝るものだった。
日々立ち仕事で疲れた足に良く効くだろうと思っていると、忍の人たちからも愛用されている湯だと店主が豪快な笑みを飛ばして教えてくれたのである。
紅さんやアンコさんもストレッチをしながら感嘆の溜息を漏らしていたのがその証かもしれない。
すると、少し遅れてはたけさんたちが男湯から出てきた。
「遅い」と言われながらも、のらりくらりとそれを躱すはたけさん。
お風呂上がりの艶を含んだ銀髪がとても柔らかそうだった。
忍として出会ったことしかないはたけさんのいつもと少し違う姿に、思わず触ってみたいなというあらぬ思考が湧き出る。
そんな考えに一人びっくりして、洗面用具をガラガラと落とした。

「……!」

慌てて拾いだすと、近くからあの優しい声が鼓膜を震わせ柔らかな石鹸の香りが鼻孔を擽った。
手に石鹸箱を持って。
あまりの恥ずかしさに、「すいません!」と言ってはたけさんの手から石鹸箱をひったくるようにして受け取った。
申し訳ないと思いながらもそれどころではなかったため、アンコさんが「やっぱり風呂上がりはフルーツジュースでしょ」と盛り上がり始めた時は心底安心したのだ。
それからというものの、申し訳なさと触ってみたいなどと思った自分の心に対する恥ずかしさから逃れるために、なるべくはたけさんには近付かないことにした。
アンコさんが美味しそうにフルーツジュースを呑む姿を見つめたり、紅さんの艶やかさに溜息をもらしたりすることで精神の統一を図ったのだ。
それでもふわりと辺りを漂ういくつもの石鹸の香りが、どうしてもはたけさんを思考に浮上させた。
おかげで近付かないようにしようと思いながらも、そっと気配を探していたのである。
そんなことを無意識にしていると気付いたのは、ふと掛けられた言葉にぷつりと思考が遮られたからだった。

「沙羅さん、いつもいののとこに花買いに来てるだろ」
「え?」

ふと掛けられた声に視線を向けると、猿飛さんが煙草を片手にこちらを見つめていた。
何故私のことを知っているのだろうかと不思議に思ったが、いのという名前で紅さんやはたけさんたちと同じ立場の人だと思い出す。
いのちゃん伝手に私のことを聞いたのだろう。 そう結論付けるのは早かった。

「もしかして、いのちゃんの先生ですか?」
「ん……?あぁ、まぁな」

そう紫煙を燻らす姿は、いのという思春期の女の子と釣り合っていない気がして少し笑みが零れる。
小さく笑う私に嫌な顔一つしない彼。
何で笑ってんだと考え髪を掻く仕草に可愛ささえ覚え始めたことは私だけの秘密である。



「アスマ、ちょっかい出すのやめなよねー」

そんな話をしていると、後方から呆れたと言わんばかりの声音が向けられぴくりと肩が震えた。
そろりと振り向けば、案の定はたけさんが私たちの後ろで腕を組んで立っている。

「ちょっかいなんて出してねーだろ」

な?と同意を求められるに従い首を縦に振った私に、はたけさんは盛大な溜息をついた。


「――――方がいいと思うケドね」
「?」

あまりにも小さなその呟きは、私の耳が捉えるよりも早くはたけさんの後ろからひょっこりと現れたアンコさんに遮られたのである。

「いくら可愛いからって乗り換えたら紅に言いつけるぞー」

投げやりなその言葉に隣の猿飛さんはガタリと椅子を鳴らし立ち上がった。
それも物凄い勢いで。
そんな姿に、あー猿飛さんと紅さんはそういう関係なのかと一人ごちる。
アンコさんに揶揄われながら頭を掻き紅さんの元へ向かう猿飛さんの背中を見つめながら、はたけさんがこちらに目を向けた。



「ほらね」

その言葉の意味を咀嚼しかねた私はどう切り返そうかと少しばかり首を傾げたが、艶やかな女性陣の「行くわよー」という声賭けにはたけさんが歩き出してしまったため言葉にすることが出来なかった。
勿論、ほらね。の意味を聞くことも理解することも出来なかった私は尋ねようかどうしようかと悩むうちにじっとはたけさんを観察するような目を向けてしまっていた。

「カカシ!今度あんたの奢りで飲み行きましょー」
「何でヨ」

私の数歩前でアンコさんがまるで酔った時のようにはたけさんの腕に絡みついている。
何でよと文句を言いながらも振り払わないところがはたけさんらしい。と思いながら、少しもやもやとしたものが鎖骨辺りを漂った気がした。
それが、ほらね。の意味を尋ねられないもやもやなのかどうかは、この時の私には判断が付かなかった。

ただ、自分の踏み込めない距離があるのだと気付いてしまったのである。
前を行く四人と、少し後ろを追うようにして歩く私。
この数歩の距離が、どこかとても遠いもののように感じる。
このもやもやの正体など、楽しく温泉に入った今必要なものではないというのに。

「どうしたの?」
「え?」

いつの間にか歩調を止めていた私は掛けられた声に視線を上げた。
自分がこんなにも下を向いていたことにも驚いたが、目の前で顔を覗き込むようにして心配の色を覗かせるはたけさんにも驚いた。
確かアンコさんに絡まれていたはず……と思いながらアンコさんを探せば、遥か前を紅さんたちと談笑しながら歩いている。

「具合でも悪い?」
「いえ、大丈夫です」
「そっか」

大丈夫と手を振れば、はたけさんの目尻に小さな皺が寄った。
優しく微笑む人なのだと気付いたのは最近だったが、この微笑みが心に温かな気持ちを齎してくれることには気付いていた。
初めて会ったあの日から。
行こうと歩き出すその背を見上げながら、もやもやの正体は何なのだろうと思考が擡げそうになる。


しかし、この優しい微笑みには敵わなかった。



おかげで、はたけさんたちと別れるまで私の思考はその温かな気持ちで満たされていたのである。





next