会いたくて | ナノ


大切なひと


「何か心配事かい?」

病室に活けてあった花の水を換えた私は、お団子で包むような祖母の変わらぬ優しい声音に意識を引き戻した。
手は無意識なのか、花を弄りまわしていたせいで少しばかり青臭い。

「……」

何か心配事。
そう問われてはじめて、自分が周りからも分かるほどに悩んでいたことを知った。
そういえばこの前も寄合所で心配されたのか声を掛けられたことを思い出す。
第四次忍界大戦が近付いているからなのだろう。
少しずつ歩みを進めていく時は木ノ葉の里に不穏な空気をもたらしていた。
日常が足元からそっと崩れ落ちていくような感覚。砂山を崩して遊ぶ無邪気な狂気を隠し持った子供のような見知らぬ敵の顔が見える気がした。
名前も、何もかもを見知らぬ敵と戦う。
それが戦争なのだろうと、よく知りもしない知識で考える。
黙ったままの私を不思議に思ったのか、祖母の心配気な瞳が向けられた。

「大戦のことなら大丈夫だよ。昔にも大きな戦があったけれど、忍の皆さんが頑張ってくれたからね」

祖母は、私が変わりゆく里の中で大戦に飲まれていくことを心配しているのだと思っているらしい。
それだけ木ノ葉の里も短期間に凄まじい変貌をとげている。
けれど、私の心配事は大戦ではなかった。
勿論大戦に関係することではあるのだが、大戦そのものを心配事として悩み続けていたわけではなかった。
花の青臭さが移った手を見つめ、一つ「違うの......」と静かな病室に溶かす。
けれど、どうこの気持ちを説明すれば良いのか考えあぐねたせいか、違うと否定したまま口はだんまりと言葉を発することはなかった。
花瓶の花を弄る音も、呼吸の音すらもしない静寂とした空間では、大戦なんてものに現実味は微塵もない。
閉口する私を見た祖母は、ふいにあのお団子のような柔らかな微笑みを浮かべた。
この空間に大戦の現実味が無いのは、祖母の柔和な空気がそれを悟らせないからなのだろう。

「それじゃあきっと、沙羅ちゃんの心配事はあの人だね?この前沙羅ちゃんが怪我をした時に迎えに来てくれたっていう」
「......!」

お団子のように包みながら、まるで予言者のように未来も何もかもを見通しているかのような瞳に射抜かれる。
お見通しなのかもしれない。
私がこの場所へ来た時。そのはじめから。祖母は本当の悩みに気付いていたのだろう。
私のことをよく見ていてくれた人だ。
母のように抱き締め、父のように叱り、祖母として見守り、一休の先代として導いてくれたのだから、きっと私よりも私のことを知っていても不思議ではない。
そう思わせるだけの力が、その言葉と瞳には宿っていた。

「うん......」

纏まらない言葉になることを承知で、重い口を開いた。
祖母ならば、丸ごと受け止めてくれる。
そんな信頼を寄せて。

「私のことを思って言ってくれた言葉かもしれないのに、それをちゃんと受け取れなかった。どうしてあんなことを言ったのか聞きたくても、もしかしたら私が思っているものと違ったらどうしようって考えたら怖くて逃げちゃって......」

矢継ぎ早につらつらと出てくる言葉たちに驚く。私はこんなにも言葉にしたいことがあったのかと、止まらぬ口を動かし続けながらそんなことを思っていた。
祖母は経緯も何も分からぬ話をただ目を閉じてじっと耳を傾けていてくれる。
その姿に安心して、口は更に言葉を紡いでいた。

「それに大戦も......はたけさんは忍だから危ないところに行かなきゃいけないのは分かってるの。でも、お母さんたちや一休が消えちゃった時を思い出すと......怖くて。もしはたけさんがお母さんたちみたいになったらどうしようって......。ちゃんと話をしたくて。会いたいんだけど、会えなくて......」

ぽろぽろとまるで涙のように溢れる言葉たちは、きっと変わりゆく日常によって心に寄せた不安という波が連れてきたもの。
どうしてあの時逃げてしまったのだろうかという後悔と、会って話をしたいという願い。
そして、もしこの大戦ではたけさんがいなくなってしまったらという恐怖。
あの暖かく私の背を押してくれた微笑みが消えてしまったら。
一休が亡くなった時に抱き締められたベストの煙たい香り。戦地のそれが今度ははたけさんを飲み込んでしまうかもしれない。
そう想像しただけで指先から血の気が引いていく。
不安が細胞に染み込んで震えが止まらなくなりそうだ。
それを何とか堪えていられるのも、はたけさんの「大丈夫」という微笑みが私を支えているから。
考えれば考えるほどどうしたらいいのか分からなくなってしまっていた。
私は忍ではない。
はたけさんと同じところへは行けないし、助けてあげることもできない。
一休で癒してあげることも、今はできないのだ。
先が見えない恐怖はまるで暗闇を歩くよう。手探りで、一歩一歩足の指先から未来に道があるのかを考え続けなくてはいけない。
私にも、はたけさんにも、足先に確かに広がる未来はあるのだろうか。暗闇の中で、それを見つけることは出来るのだろうか。
暗闇の中でもはたけさんが隣にいてくれるのなら不安でも怖くはない。
私が今最も恐れているのは、はたけさんがいなくなってしまうことなのかもしれない。

「沙羅ちゃんはその人が大切なんだね」

青臭さい手にそっと皺くちゃな手が添えられる。私を育ててくれた祖母の手だ。
皮の厚い指先と、ふにゃふにゃした掌。
人生の全てを感じられるそれが、私の恐怖に昂った心を鎮めていく。
耳心地の良い柔らかでいて、先に導いてくれるような声音。
諭されるような言葉に、私の心は迷わなかった。
悩んでいたものの全てが、祖母の一言に全て吸い取られてしまったのだ。
吸い取られて、ふわっと包み込まれてしまった。
予言者のような瞳は尚も温かな光を宿して私を見つめ、握った掌に力を込める。祖母の掌がこんなにも力強いのだと、私はこの時初めて知った。
まるで、迷うなと言っているかのように。
心に従えと。
胸に下りてきた確かな答えは、悩みの霧を少しばかり取り払ってくれたような気がした。

「......うん。大切な人なの」

言葉にしたら恥ずかしくなりそうなものなのに、この時の私は恥ずかしさなんて微塵も感じることなく、ただ只管にはたけさんが大切な人なのだと心で反芻していた。

「大丈夫。沙羅ちゃんの大切な人は、ちゃんと沙羅ちゃんの元に帰ってきてくれるから」

じんわりと目頭が熱くなる。
大丈夫と、私は幾人の人に励まされるのだろうか。
ちゃんと帰ってきてくれる。まるで両親のことを言われているような気持ちになってしまった。
もしかしたら祖母はそんなこともお見通しなのかもしれないが、私にとっては何よりも励みになる言葉だったことは確かだった。
握られた手から力が溢れてくるような気がする。

「ありがとう。おばあちゃん」

気になった青臭い手が、祖母の匂いと混じっていく。
香りは上塗りされて、そこはかとなく青臭さを覆ってくれていた。
まるで恐怖との間に柔らかな膜を作ってくれるように。


柔らかな手を離して祖母と別れる。
また会いに来るからね。そんな風に約束が出来ることの幸せを、大戦の畏怖が世の中を覆っていく中で感じていた。

はたけさんとは、約束も言葉も交わせていない。

「......はぁ」

一人帰ってきた自室で溜息を零す。
太陽がカーテンを引くように月を引っ張り上げて夜を連れてきた。
夜は心細い。
特に一人で暮らすようになってからはそれを如実に感じる。
祖母がいた時には感じなかった、何かが迫ってくるのではないかという根拠のない不安。
今は大戦が近いからか、それが以前よりも輪を掛けて身近に感じた。

「はたけさん......」

トントントン

「......?!」

まるで小さく呟いた呼び掛けに応えるかのようなタイミングで叩かれた扉にビクッと肩を揺らす。
こんな時間に誰だろうか。

「はい......」

妙に構えてしまうのは、この場所に用のある人などいないことを知っていたからだ。
そっと足を扉へと向ける。
しかし、向けた足は返ってきた声に動きを止めてしまった。

「沙羅......俺だけど」

俺なんて言い方で名乗らない相手に足が扉へ向けて駆け出す。

会いたくて、でも会えなくて。
もしかしたら大戦が終わるまで会えないかもしれないと思っていた人。
もしかしたら、二度と会えないかもしれないと最悪を想像してしまった人。
その人が、はたけさんが扉の向こうにいる。
そう思っただけで心の方が先に駆け出してしまった。
ばたばたと履物に足を通すこともしないで玄関へと下りる。

会いたい。
はたけさんの顔が見たい。

その一心で冷たいドアノブを回した。
けれど、開くはずの扉は何かに押し留められビクともしなかったのだ。

「はたけ、さん......?」

不安に揺れた声が、扉に跳ね返されて鼓膜に触れた。





next