会いたくて | ナノ


遠ざかる足


どうしてあんな風にしか言えなかったのだろうか。
頭を掻いて溜息を一つ。
まるで小説の中の主人公みたいなことをしている自分に反吐が出た。
俺はそんなたいそうなもんじゃない。
どれだけ小説を読んでも、今までの人生経験があっても、初めて己の身が感じる感情には何の役にも立たなかった。
謝ろうと、思っていたのだ。
沙羅を傷付けるつもりは無かったのだと。ただ大切だから、知らぬ間に傷付いてそれにも気付かない君を止めたかったのだと。
自分を大切にすることを知ってほしいのだと、そう伝えたかっただけなのだ。
それなのに、想いは時として体を乗っ取っていく。
気付いた時には沙羅の瞳は潤んで、必死に冷静であろうと心掛けるように唇は引き結ばれていた。
お互いに辛うじて出た言葉は空気を取り繕うためのもの。
体を乗っ取る想いをなんとか引き剥がしても、もう後の祭りであることは沙羅の様子を見れば一目瞭然だった。
家に帰るのも億劫で、その日はやけに深酒をしたことを覚えている。
わざと酩酊するまで飲み明かして、知らぬ間に家に帰って来ていたと思えば、一番に沙羅に謝らなければいけないという感情が湧き上がってきていた。
だからこそ、こうして一休へと足を向けていたのである。
風の噂では沙羅の足もすっかりと治ったと聞く。
一休にならばいるだろう。そして、会って謝らなければならない。
一言でも、ごめん、と。
しかし、俺のそんな気持ちなど沙羅は知る由もない。
見知った紅の後姿に重なるようにして、ふわりと着物の裾が揺れている。
遠くでも分かる。
あれは沙羅の着物だと。
ふわっと向かい来る風に逆らうようにして瞳を向ければ、ぱちり。
まるで見るはずもないものを見たような驚きに満ちた沙羅の視線とぶつかる。
いや、ぶつかったのかもしれない。
確かな確証など何一つ無かったが、確かに瞳は合っていた。
俺は沙羅を見留め、沙羅も俺を見留めていた。
それなのに。
近付く足とは裏腹に、淡い着物の裾はそよぐ風に攫われでもしたかのように遠去かってしまったのである。

「紅じゃない」
「久しぶりね、カカシ」

自分でも分かってしまう程に白々しい声が紅を呼び止める。
身重に振り返る姿はまさに母親のそれであり、眼差しは随分と柔らかく温かな色を灯していた。
母親とは皆こんな目をするのだろうか。
何とも言えぬ神秘性を秘めたその姿に沙羅はいるかと問えば、さっきまではいたのだと言う。
やはり、合ったかもしれない瞳は沙羅だったのだ。

「沙羅に会いに来たの?」
「......」

まるで何もかもを見通したような聖母の瞳に、有耶無耶と視線を流す。
会いに来たのだと、ただ一言そう言えば済むのに、口はまるで縫い付けられたようにぴったりと合わさったままだった。

「沙羅なら忘れ物をしたからって、家に取りに帰ったわよ」

じっとこちらを観察した紅だったが、ややあって小さな小さな、自分でも気付いていないのかもしれない溜息を零した。
その溜息が何を指しているのかは大体察しが付く。
きっと俺の煮え切らない様子に沙羅と何かあったのだろうと勘付いているのだ。
昔から紅は聡い。聡くて、賢くて、愛情深い女だった。だからこそアスマが惚れ込んだのだろう。
俺はそんな勘付いているかもしれない紅に、これまた曖昧な返事をして一休を後にしたのである。
紅が沙羅の居場所を教えてくれたということは、話し合えと、そう言っているのだろう。
俺とてこのまま話を有耶無耶にする気は無い。
紅の慈悲深い行為に甘えることにして、足は沙羅の自宅を目指していた。


ノック数回。
この前来た時と何ら変わらぬその場所で、今は招き入れられることなく扉の前で立ち往生していた。
普段の沙羅なら忍並に入口に立つ人の気配には敏感故に、慌てて出て来るのだがその気配が無い。
一休で鍛え上げられたお迎えのスキルは、俺が何度か扉を叩いても発揮されることはなかった。
それだけでなく、扉の向こうに人の気配が無いことに気付いたのである。
まさか引っ越しでもしたのだろうか?
そう思い表札を見れば、そこにはまだきちんと沙羅の名が刻まれている。
単にいないというだけなのだろうか。
それとも......。
ふと足元を漂う風が質量を増し吹き抜けていく。
瞬間一休の前で紅の影に隠れた着物の裾がひらりと遠ざかる映像が脳裏を掠めた。
考えたくもないような、それでいて思いつくのはそれしかないと風が答えを告げているような気もして。
開かない扉を前に予感してしまったのである。

もしかしたら、沙羅に避けられているのではないかと。

心のどこかでこうなっても仕方がないことをしたのだと自分を擁護する気持ちが顔を覗かせつつ、それでも何故あんな態度をとってしまったのだろうかと責め続ける気持ちもあった。
ただ開かぬ扉に会えぬ沙羅と、現状を後悔するだけの種が多分にあることも事実。
何処にいるのだろうか。
探して、話をして。俺の気持ちを言葉にしないといけない。
それは分かっている。
分かっているのだ。

けれど、あの春の菜の花のような瞳から会った瞬間ぽろりと涙が零れてしまうかもしれないと思ったら、柄にもなく足が竦んだ。
大切なのに。
泣かせたくないのに。
あの日潤んだ瞳の残像がちらつく。
もしを想像しただけで乾いた笑いが出てきてしまうほどに、今の俺はポンコツだった。

「......また今度にしよう」

これも沙羅を傷付けないため。
沙羅の気持ちが落ち着いてから、それから話をすればいい。
そんな言い訳を盾にして、結局自分を守っていることに気付きながら足を遠ざけるのだ。
扉を背にして歩き出せば、少しばかり肩が軽くなったような気がした。

本当は、沙羅の泣いた顔を見て自分が傷付くことを恐れていると気付いているのに。
沙羅の口から俺の存在を拒否する言葉が出てくることを恐れていると気付いているのに。
俺は会わないことを沙羅のせいにして歩き出していた。

また今度にしよう。
そんな呪術めいた言葉を何度も自身に言い聞かせながら。





next