会いたくて | ナノ


分かってはいるけれど


はたけさんの包み込んでくれるような温かな笑顔と、胸を刺すような冷たい瞳と声。
二つが胸の中でぐるぐるとしている。
あの河川敷で微笑んで私の背を押してくれた言葉は嘘だったのだろうか。
そんなありえもしない妄想に取り憑かれてしまうほどに、あの出来事は衝撃的だった。
頭を撫でてくれた手の重みは思い出せるのに、温もりが無い。

「沙羅ちゃん、今日も頑張ってね」

怪我をした足がすっかりと良くなったこともあり、頓挫していた一休再建をはじめる。
最初は、再建に着手することを億劫になりそうな自分がいた。
はたけさんの冷たい言葉が耳に木霊していたからだ。
それでも再建をはじめたのは、手を止めて待ってくれている兵蔵さんや楽しみにしていてくれるお客様に、祖母の存在があったから。
何より、私にはこの一休しかないからである。
噂を聞きつけた人たちから温かな言葉を掛けられるが、そこにはたけさんの姿はない。
どうしてと問い掛けても答えてくれる人はそこにはいなかったし、正直答えを聞くのが怖かったりもする。
もし、あの冷たい言葉と瞳が本心だったら......。
そう考えるたびに、胸に吊るされた鉛が重さを増す気がした。

「沙羅、元気にしてた?」
「紅さん......」

道の向こう側から身重の体でゆったりと歩いてくる紅さんは、以前見た時よりもふくよかになっていたがその分艶も増している気がした。
きっとお腹の子の影響かもしれない。
子供を身籠る母親というのはそれだけで神秘性を感じる。
お腹の中にもう一つの命を宿しているという感覚はどんなものなのだろうか。
想像も予想も、検討も付かない。
恐ろしいような、それでいて人生の中での一番の幸福を味わえるような。
心地良い春の日差しの中から日陰を見つめる。そんな感覚なのかもしれない。
いつかは自分も体験してみたいと思いながら、やっぱり少しばかり怖いような。
それでも、私の前に現れた紅さんの手がそっとお腹に添えられ、その顔には優しい微笑みがあることから、きっと子供を身籠るとはこの上ない幸せなのだろうと感じた。
大切な人との愛しい我が子。
いつかそんな幸せを感じることが出来るのだろうか。
私は紅さんを見つめながら、そんなことを考えた。
その時、私の横には誰がいてくれるのだろうか。
ふと頭に浮かんだ人物にどきんと胸が鳴る。
陽だまりのような表情を浮かべたはたけさんが、私の横で微笑む姿。
今までだったら、そんなことを思い浮かべただけで羽でも生えたみたいに体も心も軽くなった。
でも今は、優しく微笑むはたけさんの背後にもう一人のはたけさんがいる。
その人は冷たい氷の瞳を持って私を見下ろしていた。
私は、その瞳が強かったのだ。
だからこそ、ふと浮かんだ想像にも幸福だと思うことができなかった。
はたけさんに会いたい。
会って、あの時の言葉や表情の意味を問い掛けたい。
でも......。
今あの瞳と言葉が真実だと告げられたら、私はまた立ち上がれるのだろうか。

「随分進んだわね」
「はい。おかげさまで」

見上げた一休は既に骨組みも完了し、少しずつ床から組み立てられている所だった。
ここまで作業が早いのも、兵蔵さんたち職人さんの腕が良いからなのだろう。
ひょんなことから兵蔵さんに再建をお願いすることにはなったが、私にとっては僥倖としか言いようがなかった。

「それにしても沙羅が怪我をしたってカカシから聞いた時はびっくりしたのよ。もう大丈夫?」
「......はい。もうすっかり」

あはは、と足を持ち上げてみせる。
はたけさんの名前が出ただけで一瞬でも言葉を詰まらせるようでは、まだあの日を引き摺っていると言っているようなものだ。

「それなら良かったわ」
「ご心配お掛けしてすいません」
「いいのよ。きっと私よりもカカシの方が心配してるはずだから」
「......」

そう、なんだろうか。
言葉を無くした私に、紅さんは何かを感じたのか視線を落とし顔を覗き込むようにして此方を伺い見た。

「沙羅、カカシと何かあったの?」
「え......」

思わぬ一言に口元が固まる。
反応も返答も出来ないことを見ると、紅さんは小さく溜息を零してまさしく母親の顔をして言ったのだ。

「私で良かったら聞くわよ?」

と。
その顔を見て、私は亡き母親の姿を重ねた。
きっと、いつもこうして私のことを見守っていてくれたのだろうと。
慈愛の眼差しに溶かされるようにして、私ははたけさんとの間にあった出来事を言葉にしていた。
紅さんは私が言葉を止めるまで、付かず離れずの心を持ってそっと相槌を打ち続けてくれていた。
話し終えるとまた小さな溜息と、「カカシのやつ」なんていう呟きが聞こえたが、私は心に巣食っていた重りが少しでも取れたような気がしていたために、その言葉を耳が留めることもなかった。

「あの、こんな話をしてしまってすいません」

申し訳なく思い頭を下げれば、紅さんの柔らかな手がはたけさんと同じように私の頭をそっと撫でた。
思わぬ出来事にはっと顔を上げれば、柔和な瞳とかち合う。
まるで私の心の何もかもを分かっているよというような瞳だ。
はたけさんとは違う安心感をくれる瞳だと思った。

「話てくれてありがとう。私が何を言っても仕方がないと思うんだけど、そうね......」

一時逡巡した紅さんは、ぽんぽんと頭を撫でながら微笑んだ。

「カカシも、沙羅も、言葉が足りないのよ。きっと」

言葉が足りない。
思い当たる節が無いわけではなかった。
どうして。そう思った時に問い掛けなかったことが言葉が足りないというのならそうなのだろう。
でも......。
爽やかな木材の香りを纏った風が背中から吹き抜けて行く。
紅さんの肩口から後方へ。
去って行く風に誘われるようにしてちらりと視線をやった。

「......!」

遠くの方。
まだ人の姿形がはっきりと分からぬような距離。
しかし私にはその人が誰かを直ぐに見分けることができた。
あれは、はたけさんだ。
どくとくと、心臓の鼓動が早くなる。
良いのか悪いのか、甘いのか苦いのか。そんな分からない感情が、はたけさんを見留めた瞬間心を支配してしまった。

「あのっ!そ、そういえば思い出したことがあって!忘れ物、なんです」

しどろもどろに紡がれる言葉に、紅さんはどうしたのかと首を傾げた。
どうしたの?という声にも適当な空笑いで誤魔化すばかり。
この時、私の心は既にはたけさんでいっぱいだった。
会いたい。でも。

「一旦家に戻らないと。すいません、話の途中で」
「えっ......?」

早々に話を切り上げその場を去ろうとする私に、紅さんは目を丸くする。
それでも構わないとばかりに慌てる私は、紅さんとお腹の子供に大事にしてくださいと口早に告げ駆け出していたのである。

はたけさんから、逃げるように。

会いたい。
会って、どうしてなのかと問うことが私のすべきことだと思うし、この心の蟠りを解くことにも繋がるのだろう。
分かってはいる。
分かってはいるのだ。

それでも。
会うのが怖かった。

会いたい。
けれど、会いたくない。

駆け出した足は止まらぬことを知らぬかのように逃げ続けたのである。





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