会いたくて | ナノ


どうしてはたけさんは、


「やぁ」

明日現れたはたけさんは、その右目を緩やかに細めていた。
いつもと変わらぬ優しい微笑みに何故か硬い息を吐き出し胸を撫で下ろす。
私の気のせい。
昨日の違和感も、色のない声も、全部。
きっと任務終わりで疲れていたのかもしれない。そんな風に考えて病室へと訪れたはたけさんの柔らかさに、いつもの陽だまりのような暖かさを感じたのである。

「すいません。来てもらっちゃって」
「いいのいいの、俺がしたくてしてるんだし」

そう言って頭に置かれた大きな手も、いつものように心をふわっと軽くしてくれる。
そうだ、はたけさんはいつもと変わらない。
そう思ったら急に、口元がふと緩むのが自分でも分かった。
緊張をしていたわけじゃないけれど、はたけさんの違和感は想像以上に私の心に引っかかっていたのだと気付いた。
それでも、今こうして笑顔でいてくれるのだからそれでいいのかもしれない。
この時の私は、はたけさんの心の内など知らずにそんな能天気なことを考えていたのである。

「此処です」
「此処?」
「はい。お店が潰れてしまったので祖母は病院に預かっていただいて、私は一時なので此処を借りて暮らしています」

木ノ葉の大通りから三本程外れたあまり人通りの多くない場所にある小さな戸建ての並ぶ住宅街の一角。その一角に佇む見晴らしもそんなに良いとは言えない一室が今の私の住居だった。
築何十年と経っていたためにお世辞にも綺麗とは言えなかったが、それでも一時的に住むには十分な設備が整っていた。
勿論理由はそれだけじゃない。再建費用に諸々とお金が掛かるので、こういうところで少しでも費用を浮かしたいというのが本音だったりもする。

「で?沙羅の部屋はどこ?」
「二階の右から二番目の部屋です」
「じゃあ階段上らないといけないわけね」

はたけさんの視線が階段をするすると上り私の部屋まで辿り着く。
そしてその視線がまたするすると戻って来ると、今度はそのまま私の怪我をした右足へ。
手にした荷物にも一通り視線をやると、んーと一つ唸ったはたけさんは大した荷物でもない鞄を私に抱えるよう指示したのである。

「じゃあ、沙羅はこれを抱えててね」
「え?」
「よいしょっと」
「わっ!」

素っ頓狂な声を上げた次の瞬間、遠い昔にしか感じたことのない浮遊感が体を襲いひゅっと息が詰まった。
ふわりと重力に逆らう感覚に目をきゅっと瞑る。
何事かと反射のように抱えさせられた鞄を抱き締め身を固めていたが、すたすたと規則正しいリズムが体に伝わることにそっと瞳を開けた。

「!」

そこには今まで見たこともない角度のはたけさんの顔があり、空が近くて、地面が遠かった。
自分が抱き抱えられていると気付くのに時間は掛からず、開けた瞳がきょろきょろして口がぱくぱくと魚のように開閉するだけ。
はたけさんの足が階段に掛かり、一段一段と上っていく。
遠いと感じた地面が尚も離れていくことに一抹の不安と、部屋まで運ばせてしまっているという罪悪感が胸を襲った。

「あのっ!」
「んー、何?」

人一人を運んでいるとは思えない表情と息遣いに、改めてはたけさんが忍なのだと再確認する。
そして私が声を掛けた意味を悟っているかのように、抱き抱えられた腕には微かに力が込められたのだ。
その力に言葉を丸め込まれた私は一つ小さく息を吐くだけ。
部屋の前にすとんと下されるまで、口を開けることは出来なかった。

「ありがとうございます」
「どういたしまして」

まるで鳥の羽がふわふわと浮いて地に落ちる瞬間のように柔らかく地面に下される。
満面の笑みを浮かべた表情は、私の口からありがとうという言葉をするりと引き出していった。
罪悪感からくる謝罪の言葉など言わせたりはしなかったのである。
そんなところも紳士的なのだと思うほどに、はたけさんの笑顔は綺麗だった。

「どうぞ、散らかってますけど」

言って招き入れた部屋は自分の家のはずなのにどこか違和感がある。
借りたばかりということもあるが、家具やら空気やら落ち着かない。
やはり私の家は一休以外にありえないのだなといつもこの扉を開けた瞬間に思うのだ。
ひょこひょことバランスを取りながら手荷物を玄関脇へと置き、はたけさんをソファーへと促す。

「ちょっと待っていて下さい。お茶を淹れるので」

一休が潰れた時に割れて無くなってしまった客人用の茶器。それの代わりになるものなどあっただろうか。
そんなことを考えながら台所へと向かおうとした足。
しかし、ふと現れた影が行く手を阻み、その大きさで私を包み込んだのだ。

「いいよ、そんなこと」
「でも……」

目の前に立ちはだかったはたけさんは、ずいとこちらを覗き込むとまたニッと目尻を下げる。
違和感を気のせいと打ち消した後だったからか、その笑顔がやけに爽やかに見えた。

「沙羅はゆっくり座ってなさい。俺が代わりにやるから」

まるで生徒を宥めるような口調で、気付けばすとんとはたけさんが腰を落ち着けるはずのソファーへと座らされていた。

「でも!」
「いいからいいから。あ、台所借りるねー」

客人にまさかお茶を淹れさせることになろうとは思ってもいなかった私は焦りに立ち上がろうとする。
けれど、身体は案の定いつも通りに動いてくれるはずもなく、まだまだ回復のかの字も治癒していない右足がズキンと痛んだ。
そんな微かな動きにも目を配っていたのか、はたけさんは背中越しにこちらを振り返り、また子供を叱る親のような口調で窘めたのである。

「こーら。沙羅は怪我人なんだから大人しくしてて頂戴よー」

その言葉に、どうやら私の身体は今想像以上に使い物にならないのだと改めて痛感する。
はたけさんの手伝いに台所へと向かったとしても、置物よろしく突っ立っていることしか出来ないだろう。
それに、台所に立つはたけさんは何故か妙にしっくりとその場所に調和していた。
コンロに火を点ける手つきだったり、茶葉を用意する手際も今まで出会ってきた男性たちとは違ったのである。
お茶菓子にカステラがあったことを思い出して口に出せば、はたけさんはあっという間に黄金色のカステラを切り分けお皿に盛り付けていく。
薬缶の甲高い音が部屋に木霊すれば、次の瞬間には芳しい茶葉の香りが鼻腔をくすぐった。

「はい。お待たせ」
「すいません。お客様なのに」

そう頭を垂れれば、はたけさんはお茶とカステラを器用にテーブルへと並べ「気にしなーいの」と私の頭をその大きな手で撫で付けたのだ。
擽ったいその感覚に微かな甘さが伴うことに何かと小首を傾げようとしたが、頭を包む大きな手がそっと離れていくと甘いカステラと香ばしい茶葉の香りに溶けて消えてしまった。

「美味しそうなカステラだね」
「そうなんです!この前近所の方にお土産で戴いたんですけど、凄く美味しくて。兵蔵さんたちに差入れしようと思って自分でも買ってしまいました」
「兵蔵さん……って、あの名匠の?」
「はい。はたけさんも知ってるんですか?」
「まぁね。響く音一つで木の葉舞い、積み上げた蔵木ノ葉の砦...ってね」
「兵蔵さんって、そんなに凄い方だったんですね……」

朗々と歌うように紡がれた言葉に耳を傾ける。
はたけさんの低い、まるで水底を揺蕩うような声がしっとりと胸に触れた。
並べられたお茶とカステラを前にきしりとスプリングの軋む音。ゆっくりとソファーが沈み込み、はたけさんが隣に座った気配を感じる。

「用意してもらった私が言うのもなんですが、どうぞ召し上がってください」

そう言えば、久しぶりに見る綺麗な所作で手が合わせられた。
いただきます。と、すっと伸びた指先から関節の一つ一つに至るまで綺麗に合わされる掌。
一休ではたけさんの食事姿を見る度に、毎回その美しさに見惚れていた。
私にとって、人の美しさは食べている姿に全て集約することが出来る。
というのも、そもそもが一休で育った身のため美しさの基準は身の回りの物差しで計るしかなかったのだ。
そして行き着いた先が人の食べる姿だったのである。
綺麗に食べる人は、自ずと美しく見えた。

「ん?なんか俺の顔に付いてる?」
「へ?!あぁ、すいません」

無意識に見つめていたと気付いたのは、はたけさんがいただきます。という言葉の通りにカステラを一口頬張った時だった。
まさか視線をやっていたことを指摘されるとは思っていなかった私は、恥ずかしさに無理矢理話題を変えることにしたのである。

「カステラ、どうですか?」
「うん、美味いよ。俺でも食べやすい」

その言葉に導かれるようにしてカステラを口へと運ぶ。しっとりと、しかしふんわりと口内に広がる控えめな甘さにほろりと頬っぺたが落ちた。
羽が生えたような美味しさに身悶えていれば、ふと感じる視線。
まるで祖母が私を愛し気に見つめるようなそれに出会い、目を丸くする。

「あの、私の顔に何か付いてますか?」

思わずまるっきり同じ問いを繰り返したことに気付かぬ思考に、はたけさんはふっと息を緩め「なんでもないよ」と微笑んだ。
とくん。
そんな音が胸の内に木霊する。
何の音だろうか。そんな事を考えるが、やはりはたけさんの「美味しい」と食べる姿に全てがふわりと消えていく。
はたけさんには私の考えていることを消し去ってしまう力があるのではないかと思ったが、それも微かな咀嚼音や漂う茶葉の香りにかき消されてしまった。
それからというもの、和やかなお茶会はあっという間に終わりを迎えてしまったのである。
他愛もない話をぽつりぽつりと交わしながら食べるカステラの美味しいこと美味しいこと。
ご馳走様でしたと二人して手を合わせた瞬間は、まるで家族のようだと感じた。

「じゃあこれ片付けるから」
「そんな、そこに置いといて下さい。私後でやるので」

そう言って腰を上げたはたけさんは器用に私の分までお皿を回収して台所へと向かう。
洗い物までさせてはどちらが客人だか分かったものではない。
しかし慌てて止めたところで、はたけさんはまたあの人好きのする笑みを浮かべるだけだった。

「いいのいいの。俺がしたくてしてるんだから。沙羅はそこでじっとしてなさい」

変わらぬ先生口調に、きっとはたけさんはこんな風に教え子を宥めすかしているのではないのか。そんな事を考えて一人ほくそ笑む。
はたけさんの教え子になった気分は、ちょっとだけ同じ世界の空気を感じられる気がして嬉しかった。

「本当、何から何まですいません」

結局もてなされる側に全てをさせてしまった私は、片付けまで綺麗にしてくれたはたけさんを見送るために玄関へとひょこひょこ向かう。
見送りはそこでいいからとソファーを指されたが、これだけは譲れなかった。
まだ歩くことに慣れない足は、それでもバランスを取ろうとしている。
はたけさんはそんな私にどこか危なっかしいものでも見るような瞳を向けていた。
玄関で履物へと足を通す音を聞くと、こちらをじっと見つめる視線に早くしなければと気持ちが急いた。
しかしその急いた一歩が、小さな危険を呼び寄せたのである。

「危ないっ」
「!」

何も無い所だというのに、何かに引っ掛かった足はつんのめりバランスを崩す。
はたけさんの慌てた声を耳朶に受け、体はものの見事に傾き盛大な音と共にべたんと膝と手をつくはめになった。
辛うじて反射的に手が出ただけ御の字だろう。
「大丈夫?」と履物をわざわざ脱いで駆け寄るはたけさんに、家の中で転ぶなんて姿をばっちりと見られた私は恥ずかしさにあははと空笑いを零す。

「本当、すいません。なんか、上手くいきませんね。色々」

ぽろりと溢れたのは、転んでしまったことから出てくる小さな弱音。
はたけさんから貰った、沙羅なら大丈夫という言葉の力を借りて前へと進もうとはしていたが、なかなかどうして全て上手くとはいかない。
なんとも歯痒い気持ちが胸を渦巻いた。

「頑張ろうと思っていたんですけど……」

体の不調は心の不調。
大丈夫だとは思っていても、やはり心はどこか弱っているらしい。
恥ずかしさを誤魔化すために零した言葉には、私の心の底に隠れていた不安が滲んでいた。
それが不意に言葉になったのは、はたけさんならばまた生徒を宥めるように微笑んでくれるのではないかと思ったからかもしれない。
もしくは、沙羅なら大丈夫という言葉をもう一度くれるかもしれないと期待していたのだ。
しかし転んだ私の近くに寄ったはたけさんから聞こえて来たのは、これでもかと深い嘆息。
その息に思わず顔を上げれば、はたけさんの夜の森を切り取ったような瞳がこちらを見下ろしていた。

はたけさん。

そう口にしようとするよりも先に、はたけさんの口元が動いていく。
まるでスローモーションのように見えるそれが形どったのは、思いもよらぬ一言だった。

「当たり前だよ」

初めて聞くその冷たい声は、まるで指先から氷水に浸るようにどきんと胸を竦み上がらせた。
昨日感じた色の無い声だと気付く余裕すら無くなった私は、暗く冷たい視線に縫い止められ言葉を失う。
再び吐かれる溜息に肩がびくりと震えた。
長い長い沈黙の時。
見上げた右目はまるで別人のように鋭く、また呆れを帯びているような気がした。
昨日病室で感じた違和感がここで牙を剥いたような、そんな感覚だ。

「頑張っても、そんな急に上手くいくわけないでしょ」

冷水の如く静寂に浴びせられる言葉が無防備な胸を貫いていく。

どうしてはたけさんはそんなことを言うのだろう。
どうしてこんなにも長い溜息を吐くのだろう。
どうして。
どうして。

大丈夫だと言ってくれたのに……。

そんな切なる希望や光が目の前で吹き消されていく感覚に気道が狭まり唾すらも飲み込めない。
辛うじて吐き出した声が音にしたのは、「そ、そうですよね……」というまな板の上の鯉のような台詞だった。

「それじゃあ、俺は行くけど。大人しくしてなさいよ」

再び感じる頭への柔らかな重みと、水底を揺蕩うような声。
しかしこの時の私には、その全てから温かさを感じることは出来なかったのである。
はたけさんがそっと側から離れ行き、じゃあという一言を残して扉が閉められていく。
ばたんと閉じられた扉のその先を見つめ温もりが残るはずの頭へと手をやるが、そこにあるはずの温もりを感じられる心は、今の私には残されていなかった。

どうして。
どうしてはたけさんは。

疑問や与えられた希望の灯火が吹き消されてしまったことに、心は萎れた花の如く頭を垂れていた。





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