会いたくて | ナノ


ちょっとした違和感


「あら、起きたの?」

扉の開く音と共に現れた看護師の女性がにこやかに歩み寄る。カルテを脇に挟み、ズキンと痛んだ足を見ながら告げた。

「右足が折れているわ。でもあの現場でその程度で済んだんだから不幸中の幸いね」

さばさばとした物言いに、骨折程度で済んだのか......と納得する自分がいた。けれど、足の心配よりも記憶を無くす直前に抱き締めた男の子の安否が心配でならなかった。

「あの……男の子は……」
「あぁ、あの子?大丈夫よ!あなたのおかげで擦り傷で済んだから」

その言葉にほっと胸を撫で下ろす。
親の働いている姿を見に来た場所で子供に怪我があってはいけない。
もしそんなことになれば子供だけでなく親の心にも深い傷を負わせてしまうことになる。
あの瞬間、私は咄嗟にそんなことを考えていたのかもしれない。
とにかく、無事で良かった……。
なんて安堵の吐息を吐き出した時だった。
微かに騒ぐ廊下の気配を感じ、看護師の女性共々首を傾げたのである。
まさかその微かな騒ぎが自分の元へと向かっていようなどとは思わなかった私は、ガラガラと無遠慮に開いた扉に目を丸くするしかなかった。

「は、はたけさん……?」

そこには小さく息を切らして扉に手を掛けたはたけさんがこちらを見つめていた。
驚きに呼びかければ何事もなかったかのようにつかつかと歩み寄る足音。
表情の読み取れぬ右目がこちらを見下ろす様は少しばかり心をそわそわとさせた。

「建物の下敷きになったって聞いて」

息切れと共に水分を失った乾いた吐息が伝える言葉。
建物の下敷きなんて大袈裟な話になっているとは思わなかった私はふるふると手を振った。

「あ、いえ。建物の下敷きなんて大袈裟なことではないんです」
「何言ってるのよ、木材の下敷きになったんだから大事に決まってるでしょ。あなた忍じゃないんだから」

テキパキとベッド周りのあれやそれを片していく看護師の女性がすかさず言葉を挟む。

「男の子を助けられたからって、あなたが怪我したんじゃ意味ないのよ」

分かってる?と、看護師の凛々しい口調で告げられる言葉にぴくりと肩を竦めた。
まるで母親に叱られているようだと申し訳なさに顔が縮む。

「男の子?」
「そうなの。この子自分が大変な目に合ったっていうのに、助けた男の子の心配ばっかりなのよ」

まったく、呆れた。なんて言葉が聞こえてきそうな雰囲気に苦笑するしかない。
病院のお世話になって申し訳ないとは思ったが、男の子の安否が気になって仕方がなかったというのも事実だった。

「でも、本当。男の子が無事で良かったです……」

そう零せば、看護師の女性の聞き慣れてしまった溜息が一つ。
それと、もう一つ微かに聞こえた小さな小さな溜息。
ふと視線を上げれば、じろりとはたけさんの右目がこちらを見下ろしていた。

「まぁ、あなたも明日には退院出来るんだから、他人の心配なんかしてないで大人しくしてるのよ」

告げられた言葉に明日にでも退院出来るのだとホッとした。一刻も早く一休の再建に取り掛かりたかったからである。
それに兵蔵さんたちにも迷惑をかけてしまっていることが心苦しかった。
こうしてはたけさんまで病室に足を運んでくれる始末である。きっと周囲の噂は大変なことになっているような気がした。

「だそうですので、私は大丈夫ですよ!」

へらりと笑顔を作る。
忙しい時間を割いて私の所へ来てくれたのだろうことは入って来た時の雰囲気と乾いた声で察することが出来た。
有難いなと思うのと同時に、心にはお団子のような甘さが広がっていく。
私のためにという小さな特別が、少しずつ。
まるで桜の花弁が降り積もっていくように。
だからこそ、心配させてばかりいるのも心苦しかった。
笑顔を作ったのは、そうすればきっとあのきらきらと光る河川敷で見たような優しい微笑みが返ってくるのだろう、そう思っていたからだ。
大丈夫と言ってくれた、あの優しい微笑みが。
そんな風に思い、未だ感情の読み取れぬ右目を見上げた。
しかし、はたけさんは瞳をちらりとギプスと包帯でぐるぐる巻きにされている右足へと移した後、その乾いた色のない声で静かに告げたのである。

「明日、迎えに来るから」

そう一言を添えて。
「え……」と想像だにしない反応が返って来たことに目を丸くする私とは違い、側では看護師の女性がふふふと笑みを零した。

「カカシさんが迎えに来てくれるなんて羨ましいわ」

そう盛り上がる看護師の女性の声が耳をすり抜けていく。
感情を読み取れぬ右目と乾いた色のない声を見上げたままその違和感に固まっていれば、はたけさんはまた小さな溜息を吐いて踵を返してしまった。

「それじゃ」
「は、はい……」

はたけさんの出て行った扉を呆然と見つめる。
私に掛けられた言葉は一つ一つ優しい言葉であるはずなのに、その言葉には色が無い。
返ってくるはずだと思っていた柔らかな笑みが向けられないことに、心の中を隙間風が吹き抜けていく心地がした。

この時の違和感の正体を、私は後になって知るのである。
それがはたけさんと対峙して初めて感じる寒さであるということに。
それまでは、まだ動かぬ足の痛みと看護師の女性の笑い声が病室と頭の中をくるくるとしていた。





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