会いたくて | ナノ


覚悟のゆくえ


初めて名を呼ばれ抱き寄せられた瞬間、私の中に芽生えたものは言いようのない不安だった。
闇夜をぎゅっと内包したような瞳がこちらを見上げる。その瞳に、はたけさんが失意の中で何かを成そうと覚悟しているのだと悟った。
どこか壊れそうな揺らぎを感じはしたけれど、心の奥底。もっと深いところでは、確固たる決意があるような気がしたのだ。
そしてそれは、たぶんきっととても危ないことなのだろう。
任務によっては、また病院に運ばれることだって有り得るかもしれない。いや、それだけならまだいい。最悪は死んでしまう可能性だってあるのだ。
それでも、忍でない私は彼と共に戦い力になってあげることは出来ない。
無責任でも、その背を押すしか道は無かったのだ。ちらつく強い覚悟を瞳の奥底に見てしまっては。
私にしてあげられることなど無いに等しい。
取って付けたような励ましの言葉や、初めて紡ぐはたけさんの名前。その全てが大きなものを背負っているのだろう背中を押してあげられるようにと言葉にしたものの、正直どう受け取ってもらえたのかは分からない。
けれど、まるで子供が心細さに母親を求めぎゅっと抱き付いてくるような仕草と微かに聞こえた「ありがとう」という言葉に、私の気持ちが少しでも伝わっているのだと安堵した。
はたけさんは、人の気持ちを汲み取ることがとても上手い人だから。
けれど、猫のように柔らかな銀髪をやわやわと撫で付けながら、これから危ない任務へと赴くのだろうことを思うと不安が微かな恐怖を引き連れてくるのが分かった。
両親が目の前からあっという間にいなくなってしまったように、はたけさんも泡沫の如く消え去ってしまうのではないかと。
こうして抱き締められ、頭を撫で、温もりを感じているからこその恐怖が不安の後ろで口を開けているような気がしてならなかった。

それから暫くの間。
不安の影に潜む恐怖が頭の隅で顔を出そうとするのを、お団子を作りお結びを握り仕事に邁進することで忘れようと努力していた。
はたけさんの姿は、当然のように木ノ葉の里からも私の前からも消えている。
何処で何をしているのか。
皆目検討も付かない上に、知る権利など無いこの状況が歯がゆくて仕方がなかった。
心に掛ける人の行く末が分からないというのは、こんなにも歯がゆくて不安なものなのだろうか。
一人まるで地に足付かぬの状況でそわそわとしていれば、一休の前をよく見知った人物が通りがかったのを見留めた。
あれは……。
気付けばその人物を呼び止めるために、足は休憩時間を放り投げ一休の外へと駆けていた。
もしかしたら、随分と憔悴しきっている姿に見ていられなかったからかもしれない。

「紅さん!」

まるで心此処に在らずといった背中を呼び止めれば、落ちていた肩が微かにぴくりと反応を示す。
陽に当たる黒髪の艶が白髪に見えてしまうほどの空気を纏った紅さんは、まるでゼンマイ仕掛けの人形のように振り返った。

「沙羅」

あぁ、なんだ。あなたか。
そう言われたような気がした。
馴れ馴れしくもなければ、突き放されてもいない。強いて言うのなら、興味も関心も無い空蝉のような声。
冷やりと背を伝った無関心の悪寒にふるりと肩が震えた。

「あ、あの……」

どうしてこうも私は無計画を通り越して空気が読めないのだろうかということは、それこそ何と切り出して良いか分からぬ重々しい空気を形成してから気付いた。
空っ風が紅さんの髪を攫うように吹き抜ける。
子供たちが駆け遊ぶ声を遠くに聞きながら沈黙をどう切り抜ければ良いかと思案していると、不意に一つ音を下げた紅さんの呟きが鼓膜を揺らした。

「アスマがね、死んだわ」

その告白を聞くのは二回目だった。
しかし、告白の中に含まれている意味がまるで違うものだということは直ぐに察することが出来た。
友を亡くしたはたけさんの表情と、今目の前にいる紅さんの表情は似て非なるもの。
まるで自分の存在がこの世から消えたかのような空虚なそれは、紅さんにとってのアスマさんの存在がどれほどのものかを如実に表していた。
やはり、二人はそういう関係だったのだ。
温泉の時からもしかしたらという予感のようなものは働いていたが、多分私の想像をはるかに超える密度で二人は結ばれていたのだろう。
それを思うと、胸が痛い。
空蝉のような声で私に振り返り返事をした理由も、今では良く分かる気がした。
愛する人を求めていたのに、そうでは無かった時の虚無感。あの空蝉のような声の正体は、まぎれもない絶望だ。

「……」

言葉が喉元で大きな塊のようにつかえる。何と声をかけたら良いのか分からないくせに、何か言葉にしなくてはいけないという焦りがすーすーと息だけを押し出していった。

「沙羅」
「は、はい!」

まるで老成した虫が最期の地を求めて地面を這うような声に、慌てて返事をした声が上擦っていく。
言葉の塊を勢いに任せごくりと飲み込んだ私は、かち合った瞳にそれこそ息を飲んだ。
悲しみに暮れていたと思い込んでいた瞳に、微かな慈愛の兆しを見たからだ。

「私のお腹にはね、赤ちゃんがいるの」
「!」

白い透き通るような掌でお腹を撫でる紅さんは、まるで宝物を抱いたような顔をしていた。
その仕草に、まだ大きくはないお腹には小さな命が芽吹いているのだろうことが分かる。

「私の大切な宝物よ。でもね、この子を一番に見せてあげたかった私の半身は、もういない」

慈愛と悲嘆。相反する感情が複雑な気持ちを引き連れ巻き込み、何とも言えぬ色を作り出していた。
私はそれをただ見つめることしか出来ない。
痛みは、きっと負った人にしか分からないものだし、負った人だけのものだから。
はたけさんが親友を亡くした痛みも、紅さんがアスマさんを亡くした痛みも、私が両親を亡くした痛みも。
寄り添えても、変わってあげることはできない。

「忍はね、いつ消えてなくなるか分からないのよ」
「……」

その言葉は両親が在りし日の過去へと私の気持ちを向けていく。
忍はあっという間に、流れ星の如く消えてしまうのだと。

「だからね、沙羅。カカシと関わるのなら、覚悟しておいた方がいいわよ」

とくん。
不安の影で口を開けて待ち構えている恐怖が歓喜に胸を打つ気配がした。
ぞわりと肌が逆立つ。
覚悟をしておいた方がいい。それは暗にはたけさんも例外なく死と隣合わせにいることを表す。
関わるのならば、覚悟をしろ。
紅さんはそう私に告げている。それは理性でなく本能が察していた。
合う瞳の力強さに、あぁ紅さんは覚悟をしていたのかと悟る。
だから悲嘆に暮れながらも、覚悟をしろと他人である私に言えるのだ。
空蝉のようだと思っていたのは、私が勝手にアスマさんを亡くして可哀想というフィルターを掛けていただけ。
半身のように愛したアスマさんが死して尚、少しずつでも前を向こうとしているのだ。
それが、覚悟をしろという言葉に集約されている。
はたして私に、そんな大きな覚悟が出来るのだろうか。

不安に苛まれながら、はたけさんを亡くしても立ち上がる覚悟が。

そう考えた時、ふと視界が開けたような気がした。
覚悟をしなくてはいけない程の存在に、はたけさんが私の中で育ってきていることに驚いたのだ。
大切な人以上の存在として、はたけさんが私の中にいる。
消えて欲しくない存在として。
不安は大きくなり、恐怖が歓喜に大口を開けていた。
忍であるはたけさんは死ぬかもしれない。消えて無くなってしまうかもしれない。そんな風に考えただけでも苦しくなることばかりなのに、それでも私ははたけさんへのこの感情がすとんと胸に降りてきたことに安堵もしていた。
複雑だ。
不安で恐怖に背中が震えているのに、安堵なんて相反する感情が芽生えるなんて。
どう言葉を紡げばいいのだろうと思案していれば、紅さんがくすりと笑んで空気を揺らした音を鼓膜が捉えた。

「ごめんなさい。その顔なら……いえ、沙羅だったら大丈夫ね」
「え……」

まるで大いなる大地の母のような笑みを浮かべた紅さんは、全てを見透かしたように瞳を細め「それじゃあ、またね」とゆらり振り返り賑わう街の中へと溶け込んで行ってしまった。
「また」なんて挨拶をする暇もなく去って行ってしまった後ろ姿に声を掛ける勇気が無かった私は、ただ見送ることしか出来ない。

「沙羅ちゃん、店開いとるかい?」
「は、はい!今すぐ」

休憩時間をとうに過ぎていたと気付いたのは、常連さんが外で立ち惚ける私に声を掛けた時だった。
それまで、街の喧騒に溶けて消える黒髪の背を見つめながら、紅さんのような覚悟が持てるのだろうかと一人考え続けていたのである。

覚悟の行方を探すように。





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