会いたくて | ナノ


迷い子


程なくして退院した俺を、彼女は一休で待っていましたと言わんばかりに盛大に祝ってくれた。
ずらりと並ぶお結びや味噌汁に甘さ控えめのお団子。
病院食ばかりを眺めていた目には、とても贅沢な料理の数々がテーブルに並べられていた。
その品数の多さに、手間が掛かっていることは一目瞭然。
手間を取らせてしまったな……と考えはすれど、彼女がそんな手間を惜しまずに時間を掛けて用意してくれたのかと思うと、自然と顔が綻んだ。
それが俺のためだけに準備されたものならば尚更。口元がだらしなく緩む。
勿論、ほかほかのお結びを一度頬張ってしまえば病院食とは月とスッポン。
料理を何もかも胃袋に収めた俺は、満腹感と目の前で微笑む満足そうな彼女の微笑みにこれ以上ない程の幸福感で満たされていた。
たぶん、誰かのためになりたいという彼女の意思が伝わってくるからかもしれない。
俺のため、一休の常連さんのため、誰かのため。彼女の行動原理は、役に立ちたいというものから出来上がっているのだろう。
それは幼い頃に両親を亡くしていることに端を発している。
朝靄のまだ残る墓石群を眺めながら聞く彼女の過去の出来事が、役に立ちたいという人格を形成させたのだろうことは想像に難くない。
言葉の端々から伝わってくるおばあさんへの深い愛情。この子が俺のように折れず曲がらずに育ってこられたのは、彼女を見守るおばあさんがいてこそだったのかもしれない。
真っ直ぐ、ただ誰かのために何かをする。そんな奉仕の精神は、近くにいる者すらも幸せにしていくのだろう。
俺は、彼女と出会ってその小さな幸せに目を向けはじめていた。
もしかしたら、幸せは目を向ければ周りに沢山あるのではないかと。彼女の側にいると、そう思わずにはいられなかった。
しかし、幸せを感じれば感じるほど、不幸も色濃く浮き彫りになる。
まるで光が輝けば輝くほど、影が暗く存在を主張していくように。

ある日、俺の耳には信じられない言葉が飛び込んできていた。
アスマの殉職である。

まさかと思いはすれど、この世界に絶対なんてものは無い。
彼女の両親が道半ばにしてこの世を去らなければならなかったように。忍の世界には、絶対に死なないという都合の良いものは存在しないのだ。
だからこそ、死はいつも重い。
昨日まで隣で笑っていた奴が、明日には夢のように消えていることもある。
俺たちは、そんな事実と向き合いながら今日を生きているのだ。
それでも、向き合うまでには覚悟がいる。
身近な者の死を経験した時は、特に。いくら任務を熟し経験値を上げても、身近な者の死にはこれから先も慣れることは無いのだろう。
もし慣れる日が来るのだとしたら、それは俺が忍でも人でもなくなる時だ。
死を受け入れる。それは簡単なことではない。
近頃、アスマ殉職の知らせと共に帰って来たシカマルたちの様子がおかしいことには気付いていた。宿る瞳の奥の揺らぎに、忍の本能が警告を鳴らす。
あの瞳に宿るのは、復讐の炎だと。
ならば、俺はどうすればいい。
アスマのいない今、彼奴らに目を向けていられるのは俺しかいない。
サスケの時のように止めればいいのか。もしそれでも止まらなければ、どうすればいいのか。
木ノ葉の現状を考えれば、シカマルたちを仇討に出すことは避けたいだろう。
里のことを考えれば、それがベストな選択肢であることは間違いない。
しかし、そうなれば彼奴らの気持ちはどうなる。
里を作るのは人々であり、忍たちである。
そんな忍の心を捻じ曲げて出来た里は、一体どんなものになるというのだろうか。
俺は、選択に迷っていた。

「はたけさん……?」

だからかもしれない。
出口の無い迷路を彷徨いながら、それでも光を求めていたのだと、俺は彼女を視界に留めて悟った。
闇夜の中でほんのりと明かりを灯した店内と、店先に揺れる暖簾。
道に迷った者の目印のように、一休と彼女は存在していた。

「……」

「やぁ」とも「こんばんは」とも挨拶をしない俺に何かを察したのか、彼女は暖簾を下ろした後「どうぞ入って下さい」と一休へ招き入れた。
明るい。
店内の肌を包むような明るさと、甘じょっぱいたれの香りが固まっていた神経を解いていく。
春には桜の見えていたいつもの席へと案内され、気付けば目の前には温かなお茶が湯気を立てていた。

「私で、力になれますか?」
「え……」

今日はじめて合う瞳に、こちらを伺う彼女の姿が映る。
迷路に入り込んでいた思考に、その言葉は唐突すぎた。

「はたけさん、辛そうです」
「……」
「私で良ければ力になりたい……です」

尻すぼんでいく言葉と、真っ直ぐにこちらを見つめてくる視線。おぼんを抱えたままの手にぎゅっと力がこもるのを見留め、彼女がどれほどまでの覚悟をもって告げたのかを察する。
きっと迷子のような顔をした俺のことも、自分のことのように悩み励まそうとしてくれているのだろう。
彼女は優しい人だから。
それでも、俺はそんな真っ直ぐには生きて来られなかった。だからこそ、今この瞬間も迷いながら彼女を迷路に引きずり込もうとしている。
一緒に迷えば、彼女は間違いなく寄り添ってくれるのだろう。
そう甘えた期待を胸に、立ち昇る湯気に言葉を溶かしていた。

「アスマがね……死んだよ」

はっと息を飲む音が店内に木霊する。
ふと緩んだ彼女の手は、次の瞬間には骨が浮くほどの力でおぼんを握り締めていた。
「そんな……」と口から思わず漏れた言葉を耳が拾うと、俺の心には得も言われぬ罪悪感が押し寄せ胸を締め上げていった。
真っ直ぐとこちらを見つめていた視線が左下へと逸らされていく。
その仕草が過去の回想だと分かるのは、忍として生きてきた故かもしれない。
彼女は今、アスマを思い出しあいつが死んだことを受け止めようとしている。
静寂なんて神聖なものではない重々しい空気が漂った。いつだって、死を語る時の空気は鉛よりも重い。
そんな中に彼女を有無も言わさず引きずり込み、あまつさえ皺など寄らないだろう眉間に深い溝を刻みつけてしまった。
寄り添ってくれるのだろう。
そんな甘えた思考が、彼女の表情を歪ませたのだ。
苦痛に耐えるようにそっと瞳を閉じる姿に、そんな顔をさせたいわけじゃない。なんていう都合の良い台詞を吐けるはずもなかった。
そもそも、迷っていたからと言って軽々しく告げて良い話ではない。
それなのに、俺は彼女の優しさに甘えて背中を押して貰おうとしていたのだ。
いや、それだけじゃない。
思い出すのは、彼女やアスマたちと行った温泉での出来事だ。
二人が椅子に座って肩を並べている姿を見て、何故か眉間がむず痒くなったのを覚えている。
視線が合っただけで目を丸くし石鹸匣を有無を言わさず引き取られてしまった俺とは違い、アスマとは妙に楽し気に話しているではないか、と。
だからこそ、平等に扱ってほしいなんて子供のような我儘を抱いた俺はあんなことを口にしたのだ。

『アスマはやめといた方がいいと思うケドね』

彼女の気がアスマに向いているのかもしれない。でもあいつには紅がいる。その現実を伝えようとしたのだ。
今思えば、なんて幼稚なことをしていたのだと頭を抱えたいところである。
しかし、今の俺は比べものにならない程愚かなことを仕出かしたと気付いていた。
彼女の優しさを利用するだけでなく、死を相手の心を追い込む道具にしてしまったのだ。
もしかしたらアスマを好いているのではないかと思い、胸に巣食う浅ましい感情を彼女にぶつけてしまった。
アスマの死を告げれば、彼女の心が少しは俺に向くのではないかと。
平等に扱ってほしいなんて体の良い言い訳である。
本当は、子供が親に縋るように自分を見てもらいたかっただけなのだ。
こんな俺を知ったら、彼女はどう思うのだろうか。
朝靄を分け入るように差し込んだ日差しの中で、友が死んだと告げた時にそっと握られた袖口をなぞる。
俺は優しくもなければ真っ直ぐでもない。
アスマの死を利用して人の心を揺さぶろうとした卑怯者だ。
でも、だからこそ。
そんな卑怯なことをしてしまったと気付いた今だからこそ。
人として、忍としての最後の一線は越えてはいけないと理解出来る。
シカマルたちの、人の、忍の。
”心”を大切にするべきだと。
なぞっていた袖口を皺が寄るほどの力で握り締める。
やることは、決まった。
未だに辛そうな表情で瞳を閉じる彼女を見上げる。
こんな顔をさせてしまったと後悔しているはずなのに、知らない表情が見られたことに愛おしさが湧き出す。
つくづく歪んだ思考をしていると思ったが、それも今に始まったことではない。
俺は、優しくも真っ直ぐでもない卑怯者なのだから。

「沙羅……」
「!」

初めて呼ぶ彼女の名は、どこかほろ苦い焦げたお団子のタレのような味がした。
はっと見開かれた瞳とかち合う。
透き通る磨かれた黒曜石のような瞳に吸い込まれそうになれば、彼女は唇を引き結び、次いで何かを決意したようにその唇をそっと開いたのだ。

「あなたは、一人ではありません。ガイさんや、ナルトくん達がいます。勿論、私も」
「……」
「だから……」

一瞬の沈黙に深く息を吸い込む音が鼓膜を揺らす。

「だから。カカシさんは、カカシさんの正しいと思ったことをして下さい」

まるで俺よりも先に戦地へと赴いて行ってしまいそうな力ある言葉に呆気に取られながら、それでもくすりと微笑んでしまった。
肩の力がストンと落ちる。
どうして分かるのだろうか。
俺の今一番欲しい言葉が。
こんな歪んだ思考でいた俺のことを考え続け、尚且つ精一杯明るく振舞い励まそうとする姿。
そうだ。分かっていたことじゃないか。
彼女は優しくて、真っ直ぐなのだ。

腕を、まるでそうすることが自然だと言わんばかりに伸ばしていく。
ぎゅっと、割烹着や帯に阻まれた腰ごと彼女を抱き締めた。
ぴたりとくっつくおでこと割烹着。彼女がいつも大切に作るお団子のタレの香りが、そこには染み付いていた。
すーっと香ばしい匂いを深く胸まで下ろす。

「ありがとう」

告げた言葉が彼女に届いているかどうかは分からない。
それでも、俺は決心が鈍ることのないようにとその香りで身体中を満たし、腕の中にある温もりにそっと瞳を閉じていた。

もしかしたら、遅れて俺の頭をぎこちなく撫でた手が、届いているのサインかもしれないと期待して。





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