わるいひと | ナノ


「おやまぁ、ばれてしまいんした」

くすくす、くすくす。
機嫌良さ気に笑う彼女。何がそんなに可笑しいのか。笑っている場合ではないだろう。
驚きにほうけ、喉元に差し掛かった言葉はあと一歩の所で出てこない。

「全く見えないわけではござりんせんよ」
ただ少し、視界に煙がたかりんす。

事も無気に言葉を紡ぐ彼女は、そっと顎にかけられた手を遠ざけ、側にあった煙管を近づけた。
迷い無く動く手に、彼女の言葉は嘘ではないのだと安堵する。
まだ、見えている。

「この煙がなぁ、イタチ様と同じ世界を見せてくれんすよ」
愛おしそうに煙管を撫でる指先を追った。
優しく、其れはもう大切そうにそれを撫でる。
「暇潰しのつもりでござりんしたが、おやまぁ。僥倖とは正にこのことでありんすねぇ」
指に絡む煙管はかちゃりと音を立て、その見事な絵柄を勿体つけて覗かせる。
「見えなくなるぞ」
「なんと、それは嬉しや」

くすくす、笑みを絶やさぬ彼女。
狂気染みた思考にどくりと心臓が唸る。
それは彼女の狂気にか、彼女の思惑にか。
戯れのように笑うものだから、何が真実か分からなくなる。

けれどもそれを何より嬉しく感じる己がいた。彼女の中に、イタチはこんなにも息衝いている。それを喜んだのは、はたして俺か、イタチか。はやる動機を抑えるように、ぎりと握りこぶしをつくった。この熱情に身を任せてはいけない。
これはイタチの狂気に違いないのだ。
自分を犠牲に里を救ったような男が、こんなイカれた感情を持つはずがないと、己の中に存在する幻影を諌める。イタチが彼女に抱くのは、穏やかで甘く痺れるような恋とも愛とも知れぬ未練だけでいいと。ずぶずぶと、抜け出せぬ沼にはまり込んだように覚束無い思考に酩酊する。

「いけんすよ」

彼女の声が聞こえた。
握った拳に柔肌の感触が伝わる。それが彼女の柳のような指先であると理解し、咄嗟に固く閉ざした指先を緩めた。拳へと向けた感情が、俺の手を包みこむ彼女のそれを傷付けてしまいそうだと感じたから。

「血が出てしまいんす」

するりと絡まる柳。骨張った、けれども女性のそれであるとわかる指先が手の平を這い、指を這う。繋がれた手の平が微小の熱を運び、ゆっくりと彼女の冷たく凍えそうな手を温めた。
確かに感じた温もりにほっとして、荒れた心が穏やかに凪いでいく。

目の前の彼女の温もりを俺が感じ取っているように、俺の中に棲まうイタチもまた、この温かみを噛み締めているのだろうか。もう二度と触れられない己の手を、腕を、嘆いていないだろうか。

「サスケ様の手は、血が良く巡っておりんすね」

繋がれた手の指先が悪戯に甲を撫でる。
少しくすぐったい。

「お前は冷たいな」

その緩慢とした動きを止めるようにぐっと握れば、余りにも細く硬い感触。贖罪のように力を弱め、指先で甲をさすった。
くすぐったそうに身を捩り笑う姿を視界に入れ、身の内から途方もない愛しさが込み上げる。イタチが、繰り返し囁く。どうしようもなく愛おしいのだと。

「おや、」

彼女の存在を辿るように抱きしめた。細い指、細い腕、細い肩。小さく華奢なその体で、彼女はどうやって生きてきたのだろう。これから先、どうして生きていくのだろう。両の手で掻き抱けば余ってしまう腕が不安を連れてくる。艶やかな髪を辿り、彼女の小さな頭すら腕の中に押し込めて尚、その焦燥は俺の思考を焼き切ろうと増していく。
あぁ、もう。いっそこのまま、腕の中に閉じ込めてしまえればいいものを。
彼女の髪から香る甘い匂い。胸で深く呼吸をすれば、煙管の煙が微かに混ざり、まるで麻薬のように甘美な香りが肺を満たした。

「紅葉、」

記憶に残る名を呼ぶ。
旧友の名を呼ぶように、口はするりと彼女を象った。囁いたその声は驚く程に穏やかで甘い。

するり、
呼び声に応え彼女はその身を沈ませる。抱いた腕の中でそっと胸元に頭が凭れかかり、少しばかりの重さが伝わってきた。
細く、今にも手折れてしまいそうな彼女から感じた確かな重み。腕の中から溢れてしまわぬように抱き込めた。

「紅葉、」

もぞり、掻き抱く。
彼女の華奢な肩も、甘美な髪の匂いも、気を抜けば全てが消えてしまいそうで、強く、強く抱き締めた。其処に在るのだと確かめるように、幾度も彼女の名を呼んだ。この時が永遠に続けばいいと、そんな願いを請うように口は幾度も同じ形を象っては繰り返し囁く。


「そこに、」

どれ程の時分そうしていただろうか。幾度目になるかも分からない譫言を呟いた時、甘く愛おしい声が聞こえた。少しばかり骨に響くのは、彼女の顔が胸に寄せられているからだろうか。心音に聞き耳を立てているのか、喋る声は酷く静かに凪いでいた。

「そこにおりんしょう、イタチ様」

「、」

心臓が、どくりと鳴った。





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