わるいひと | ナノ


はっと息を吸う。
思わぬ言葉に腕を緩め視線を向ければ、しな垂れたままの彼女。視線は合うことなく、彼女の耳は只管に心臓の音を拾っていた。

「そこにおりんしょう、イタチ様」

細い指がそっと胸に添えられる。壊れ物を扱うように、柔らかなものを包み込むように、その仕草は何処までも優しい。俺の中に在るイタチが、歓喜に震えるのを感じた。どうしようもない嬉しさと愛おしさで、俺の心臓を騒ぎ立てる。急に胸が苦しくなって、縋るように彼女をまた抱き締めた。

「ふふ、まったく。しょうのないお人でありんす」

ねぇ、

再び腕の中へと閉じ込められた彼女は、くすりと淡く笑う。仕方の無いとばかりに彼女の腕が俺の背に回され、とん、とん、とあやし始める。彼女の耳は、未だに俺の胸にあてられていた。

「大丈夫、大丈夫」

どくりどくりと急く心音に向かって、彼女は何度も言葉を紡いだ。大丈夫、大丈夫だと。何度も、何回も。

「イタチ様、大丈夫。大丈夫でありんすよ」

記憶であるはずのイタチは確かに俺の中に息衝き、この瞬間すらも衝動のままに動こうと俺の腕を拘束する。溢れないように、そっと、そっと。彼女が大事なのだと俺に囁き続ける。そんなイタチの狂気を知っているかの様に、イタチの意思がそこにあることを理解しているかのように、彼女はイタチをあやし続けた。
静かで穏やかな声だけが部屋を満たす。燻りと煙っていた煙管の靄は気付けば何処かへと霧散して、幾分か透明になった視界が彼女の相貌を捉える頃には、狂おしげに鳴いていた心音も、硬く動かなかった腕の力も、全てが穏やかに彼女を包んでいた。腕の中でずっと囁き続けていた彼女も、そっと凪いだ音が伝わったのか、くすりくすりと肩を震わせる。とん、とん。緩やかに拍子をとる手とはちぐはぐに、彼女の声が軽やかに宙を舞う。

「弟君を遣わしておいでなんして、まったく」

くすり、くすり。
可笑し気に、愛おし気に、彼女は言葉を紡いでいく。

「大事なお人、乗っ取ったらあきませんへ」

とん、とん。
ゆっくり、調子に合わせろと背に回った手が拍子を刻む。

「私なら大丈夫。大丈夫でありんすよ」


とくり。

心音が一つ、大きく鳴った。
途端、落ち着きを忘れた様に胸がが鳴り出す。悲痛なイタチの嘆きが、胸を焼き、耳を劈き、押し潰されそうになる。耐え難い苦痛だ。

「紅葉、」

「あい、すみませぬ」

苦しみから逃れようと彼女の名を呼ぼうとしたその時、胸にジッと耳を当てされるがままになっていた彼女が突然声をかけてきた。
ゆるりと顔を離し、ゆるりと瞳を合わせてくる。背中に回りあやしていた手はゆったりと顔に添えらた。差し込まれた手があまりにも緩々と動くものだから、背にぞくりと痺れが走る。そうして添えられた手に導かれるまま、彼女へと顔を寄せた。

「一度ばかり、ご容赦を」

息がかかる程近く顔を寄せた時、彼女は確かにそう呟いた。呟き、そうして互いの息を止める様にほんの数瞬、口付けた。甘い痺れと、鼻の奥にくるつきんとした何か、ぎゅっと握られた様に苦しくなる心臓と、知らぬ間に目尻からこぼれ落ちた涙。イタチの心が満ち足りた幸福に溢れ返った瞬間だった。





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