わるいひと | ナノ


静寂と呼ぶには小煩い。
心臓がどくりと脈を打ち、この不安定な静寂を崩そうと鼓動を増していく。

イタチの想いは確かだった。
けれど彼女は。
彼女は、イタチをどう思っているのだろう。

記憶に映る彼女はあまりにもいじらしく、あの時の彼女は誰が見ても懸想をする女そのものだった。
けれど今は。もうこの世にはいないと、彼女も気づいているのだろう。
そんな男を、彼女は想い続けているのだろうか。遮るように告げられた言葉の奥に、確かな不満を感じとり、記憶のイタチがざわりざわりと騒ぎ出す。

どっと不安が押し寄せる。
行動を起こさず、こうして薬屋に留まり続けられる程度の、軽い想いであったのではないか。
今に追いやられて思い出にされているのではないか。
考えれば考える程、俺に残るイタチの感情が荒々しく波を立てていく。
恐れているようだった。

「おや。どれ、こちへおいでなんし」

さめざめと血の失せる顔色に気が付いたのか、彼女はそう告げると、こいこいとばかりに手招きをする。
半分程隠れていた手が着物からするりと伸びて、あまりにも細く血色の悪い腕が露わになる。これでは何方が患者か分かりはしない。

「どれ、久しぶりに医者の真似事でもしてみるかえ」

招かれるままに近づき座敷の片隅に腰を下ろす。存外近い距離から伸びてきた腕に一瞬及び腰になるも、頬に触れたひやりとした感触に意識は乗っ取られ、驚きを塗り替える様にぞわりとした感覚が身を襲う。
ああ、これはイタチが感じていたものだと心の何処かで理解する。
甘い痺れ、じわりと滲む暖かい何か。
イタチの感じていた感覚が鮮明に蘇る。

頬に触れ、目に触れ、耳に触れる。
そろりそろりと顔を這い落ちていけば、やがて指先は唇へと辿り着く。
彼女の柔らかい指がそっと表皮を撫でる感覚にぞくりとした。

「唇の乾燥は胃が弱っている証拠でありんすよ」
食事は摂っていんすか。
たんとお休みなんし。

そろり、そろり。
唇の感触、皮膚の渇き、全てを辿るように触られる度、ぞわりぞわりと血が沸き立つ。
どくりどくりと体を駆け巡る。
まるで言うことを聞かなくなった体。
愛しい人との戯れのようなその行為が、思考に淡い痺れを促す。
甘く穏やかな声音が耳に落ち、誘われるように手を伸ばした。
何を求めているのか、何をしたいのか。
思考が追いつかないままに、体だけが先立った。


「あなや、」
柔らかい頬の感触。
吸い付くように潤った肌。
さらり、指を這わせ頬を辿れば、片手で収まってしまいそうな程に小さい形を象る。
余った指先が髪の間に入り込み、その形を確かめるようにゆっくり、ゆっくりと侵入していく。

制御の効かない道具の様に、頬を、顔を、形を、記憶に刻みつけるかのように辿っていた。
血の気のないその真っ白な頬に赤がさすことを俺は知っている。
深い黒のその瞳がいじらしく縋るように見つめてくることを俺をは知っている。
蠱惑に笑むその口から紡ぐ優しさを俺は知っている。
俺は、知っている、見てきた、全て、全て。

纏わりつく熱のよう。むわり、むわり。
ゆっくりとした速度で近づいていた体がやがて重なろうと重心を傾ける。
むわり、むわり。
目が離せない。
彼女の瞳に俺が映る。
何を考えているのかわからない、無表情の瞳。
下げられた口の端。
それがだんだん、だんだんと近づいていく。

もう少し、あと少し。
息もかかる程に近づいた、その時。

俺は現実に引き戻されるような感覚を覚え、目を見開いた。
乱暴に彼女の顎を掴み上げ、じっとりと、その瞳を見澄ます。
どくりどくりと熱量を保っていた血がひいていく。
唾を飲み込む音がやたら耳に響いた。

「あんた、見えていないのか」





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