わるいひと | ナノ


「さぁ、サスケ様」

そろそろ御別れ時間でありんすへ

額をくっつけ、互いの瞳を暫し見つめ合う。イタチの溢れそうになる心の動悸を誤魔化すように、俺が思わず瞳を逸らした時だった。
彼女はくすりと笑うと、夢から子を醒ますようにそう告げてきた。終いだとばかりに、ぎゅっときつく腕を回され、抱きしめ返す暇もなくトンと体を押しやられる。
華奢で手折れそうな彼女の見た目に削ぐわぬ少しのがさつさが、今までの甘い空気は終いなのだという合図である事は明白だった。

衝動のままに抱き竦め、味わう間もなく交わされた口付けの後にやってきた余りに違う空気に、俺は暫し呆け、やがて意識が冴えていく様に頭の霧が晴れていく。
そうして覚め切った頭が回るにつれて、ほんのりと唇が湿り気を帯びている事に気付き手を添わせた。

「これは、」

「ただのりっぷくりぃーむ、でありんすよ」

確かめる様に指を添わす俺を真似る様にして彼女は自身の唇に指を添わせ、そうして悪戯が成功したとばかりに大層嬉しそうに笑った。

「唇の乾燥には、これが良く効きんすへ」

「、」

彼女の突然の変わり身に覚束無いながらも順応していくと、不思議と先程の出来事が淡い記憶の彼方の出来事かの様に、胸がだんだんと静けさを取り戻していった。

「さて、サスケ様。そろそろお帰りなんし」

夜も更ければ此処ら一帯は霧が深うなりんすよ。
やがて心音が正しい鼓動を刻み始めると、彼女はそう告げ、
わっちはもう、眠る時間でありんす。
なんて断り辛い事を呟き、そうして態とらしく大きな欠伸をしてみせた。
先程はイタチに意識を乗っ取られたかの様に熱に浮かされていたばかりに、俺はまだ此処に来た目的を果たせずにいる事にようやく気付き、そうして追い出されそうになっている事態に頭を抱えた。
切り出すにはタイミングが遅すぎることは、いくらこういった事に疎い俺でも、流石にわかった。
さっき、あの時に告げてしまえば良かった。
イタチは、あなたの事が。

「さぁ、さぁ。はようお帰りなんし」

私の褥に潜り込むには、まだまだ色気が足りないでありんすよ

来訪した時の様に人をおちょくった態度でぐいと肩を押しやられた。
これは、最早機会を改めるしかないだろうと思い、仕方無しに渋々と立ち上がる。
そう、場所は知った。
また頃合いを見計らって会いにくればいい。
そうして、その時には必ず伝えよう。

未だにくい、くいと肩を押されるものだから、しつこいと一言告げれば、彼女は一瞬の間の後、くすくすと笑った。

「さぁ、さぁ、サスケ様」

「そう急かすな」

腰掛けていた座敷から立ち上がり、咳立てられるままに入り口へと手をかけた。

「また来る」

「…あい、おさらばえ」

そうして去り際に告げた言葉に返ってきた合いの手を聞き届けると、俺は霧が濃くなった森を戻っていった。
来る前に燻っていたもやもやとした胸の蟠りはもう無くなっていたけれど、次に来た時は、きちんと伝えようと決意して。