二世の契り−ゲンマ− | ナノ


蜜柑はその腕の中に


変な光景に出会した。
いや、別に何が変というわけではない。
ただつい最近酔い潰れて部屋まで送り届け、剰えその唇に身勝手にも己の感情を押し付けた相手が、八百屋の店先にいるというだけ。
八百屋の店先で視線を一点に落とし、ただ呆然と突っ立っているだけ。
そうそれだけの光景なのだ。

「姉ちゃん、その蜜柑は木ノ葉一甘いよ。あーそれと、ちょっと酸っぱいのが好きならこっちだな!」
「……」

八百屋の店主が沙羅を相手にあちこちの蜜柑を取っ替え引っ替え。あれは何処の名産で、皮が硬いとか柔らかいとか剥きやすいとかやすくないとか。甘いとか酸っぱいとか。そんな八百屋らしいセールストークを繰り広げている。
しかしあいも変わらず沙羅は一点を見つめ続けるだけ。どれを買うか迷う素振りも、そもそも買うかどうするのかを迷う素振りもない。ただ見つめ、突っ立っているだけ。
これでは暖簾に腕押しもいいところである。
次第に店主も沙羅をお客とみなさなくなってきたのか、その扱いは困惑の色を極めつつあった。
溜息をひとつ。
俺は別に変ではないはずの光景に一歩足を踏み出したのである。

「おい」

無遠慮に掛けた声に運良く沙羅は反応を示した。さっきの様子では俺の声すら意識の外にやられてしまうかと思っていたがそこまでではないらしい。ゆっくりと沙羅の視線が寄越される。

「買うのか買わないのかはっきりしろ」

迷惑だろう。そう視線に込めて店主や周りのお客に目を流す。店主はそんな俺にまさに救世主でも現れたかのように救いを求める視線を寄越した。確かにこのまま一人突っ立っていられては商売の邪魔になることは間違いない。何の反応も示さない相手に商売など、人形相手に物を売りつけようと試みることに近いに違いない。そりゃ救いを求めたくもなるのだろう。

「あ……」

小さな声を漏らした沙羅は、俺の言わんとしていることを察したのかその顔を謝罪の色に変えた。そして慌ててさっきまで見つめ続けていた蜜柑。確か木ノ葉一甘いんだっけか……の蜜柑を竹籠に乗っている五つ全てを手に入れた。紙袋に蜜柑が五つとお代の小銭が目の前で交換されていく。じゃらっじゃらとがさがさが。がさがさとじゃらじゃらに代わるのを目の前で見ていた俺は、どうしてこんなことをしているのだと自分に問い掛けた。問い掛けて、まったく答えが出ないことに驚いた。強いて言うなら変な光景の正体を知りたかったから。そして迷惑に思われそうな沙羅を放っておけなかったから。今でも俺のお節介は当たり前のように発揮されるらしい。

「そんなに買ってどうするんだよ」

蜜柑を五つ買ったからってそれがそんなに、という量かと言われるとそんなでもない。蜜柑五つなんて一日一つ食べれば五日で無くなってしまうのだから。
それに沙羅のあの殺風景な部屋には蜜柑ぐらい鮮やかな色彩があって丁度いい。
紙袋を抱えた沙羅の横を歩きながら自分の口にした言葉の適当さに何を言っているのやらと内心呆れた。それがばれなかったのはきっと沙羅が蜜柑に目も心も奪われていたからにほかならない。

「どうもしない」

返ってきた答えはなんともらしいもので、俺は一人あれやこれやと考えていたことが急に馬鹿らしく思えてきた。
しかし馬鹿らしく思えど、沙羅の横顔を盗み見た時その“どうもしない”という言葉に含まれる感情が表面上薄っぺらいものでないことには直ぐに気が付いた。
紙袋から艶やかな蜜柑がそっとこちらを覗き見上げる。
まるで、私は彼女の大切な宝物なのよ。そんな声が聞こえてきそうだ。それぐらい沙羅は蜜柑を大事そうに腕に抱えていた。実を潰さず、温めすぎず、傷めることなく。それこそ蜜柑が一番大切なものであるかのように。
一瞬、それがとても奇妙な光景に見えた。
変な光景の次は奇妙な光景ときた。どうしてだか最近沙羅を含めた景色は俺の中に異色として映るようになっていた。
それでも出会った頃や、平手打ちをした時からのことを考えると、それも当然かと割り切るにはあまりに沙羅に対して無遠慮なことをしすぎている自覚はあった。

「ちゃんと食べろよ」

沙羅のことだから本当に“どうもしない”のかもしれない。買うだけ買って、家に帰って靴を脱ぐのと一緒に玄関に置いてそのままにしてしまうかもしれない。それとも、この雰囲気から植物を育てるように窓辺に置いて陽の光を浴びせようとするかもしれない。何はともあれ、きっと沙羅の腕の中、紙袋から覗く蜜柑たちの運命は普通のものではないのだろう。食卓に置かれ、皮を剥かれ、甘いとか酸っぱいとか言われながら食べられる普通の蜜柑には。
だからこそ思わず「ちゃんと食べろよ」なんてことを口走ってしまったが、案の定沙羅からの返事はうんともすんともなかった。
ただただ大切そうに。壊れでもしそうな宝物を扱うような目をして、一心に蜜柑を抱えていた。
それを俺は単純に蜜柑がそんなにも好きなのかと思ってしまったのだ。

「そんなに蜜柑が好きかよ」

好奇心の赴くまま、それが何某かの地雷を踏むなんて思ってもみずに。
問い掛けた言葉に急に沙羅の足が止まる。横から消えた影に振り返れば、沙羅はまたあの八百屋の前でじっと蜜柑を見つめる瞳を腕の中の蜜柑に落とした。
そして一つ、小さく。

「蜜柑は好き」

そう答えたのだ。
あまりにも単純明快な答えにやっぱりと納得する心と、沙羅の瞳にはそれ以外の何か違う光があると違和感を覚える心と。沙羅を見返してもそれは分からなかったし、沙羅から何かを語られることもなかった。
ただその違和感の正体が知りたくて、俺は沙羅と分かれた後、いつも通り任務をこなした帰りのその足で例の八百屋へと足を向けた。
店主は俺と沙羅のことを覚えていたのか、妙に厚かましい礼を言われたがそれに適当に返事をして店先に並ぶ蜜柑を見下ろした。
沙羅がそうしていたように。
そして沙羅が買い占めてしまった蜜柑の代わりに一つ、適当な蜜柑を手に取って小銭と交換した。じゃらじゃらとがさがさの交換ではなかったが、俺にはそれで十分だった。
蜜柑をお手玉のように片手で弄ぶ。
どうしてあんなにも蜜柑に見入っていたのか。あれは見つめるというよりも、もはや魅了されていたといってもいい。何故そこまで。そう考えながらぽーんぽーんと蜜柑が宙に浮く。あの紙袋の中からこちらを見上げて彼女の大切な宝物なの、と言わんばかりの蜜柑とは大違いなそれに苦笑がもれた。
やがて放っては手の中へ落ちる蜜柑が夕日と重なっていく。
その眩しさに目を細めずにはいられなかった。
橙色の空が絵具を滲ませたような紫を作り、段々と墨で濃く塗りつぶされていく。ちらちらと輝き始めた星は他国に行ったことがある俺でさえ、やはり木ノ葉の星空は一番だと言いたくなるほどには美しい。
沙羅にとって、蜜柑は俺が思うよりも大切なものなのかもしれない。
そう思い至る頃には手の中の蜜柑は放られ揉まれ、随分と柔らかくなってしまっていた。



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