二世の契り−ゲンマ− | ナノ


愛は人をどうするか


この感情を表すならば、それは空っぽのごみ箱だ。

日に日に朧気になっていく触れた唇の感触。鮮明だと思い込んでいたそれは日常に埋もれるようにしてその精彩さを欠いていった。
当たり前のこと。忍として生死の境を彷徨う世界で生きている以上、記憶は日々の熾烈さに塗り替えられていく。
それでも、胸にはどうしようもない蟠りのような得体の知れないものがあの日から巣食っていることも確かだった。
それは沙羅が寝言に混ぜて呟いた一言が原因であろうことも。
あの呟きの真実を、沙羅はまだきっと気付いていない。己の心が誰を求めているのか。
だからこそ、今ならまだ間に合う。
気付いていないのなら、心の糸端を引いてしまう前にその糸ごと燃えて消えてしまえばいい。空っぽのごみ箱みたいな心に小さな紙屑が一つ、投げ込まれた空虚な音が耳元で聞こえた気がした。
お願いだから、胸の奥底に芽吹きつつある気持ちには気付いてくれるなと、薄れゆく唇の感触に身勝手な切望を上塗りしていく。
それしか今の自分にはできないことが酷く歯痒かった。
任務があるわけでもなく、待機を命じられているわけでもない。自由というとりわけ扱いに困る時間をどうしようかと頭でぐるぐると考えながら布団で寝返りをひとつ。頭の中では溜めていた洗濯物を片付けて、買い物に行って。そんな普通の生活をシミュレーションして一周。動くのが面倒だと思いながらも、動かないことには何も片付かないと観念して、もそもそと芋虫のように布団から這い出た。
その足で身支度を適当に済ませ、財布をポケットに突っ込む。買い物に出ようと思ったのは、何かとシミュレーションの結果その方が都合が良かったからだ。
まさかその途中で空っぽのごみ箱が屑の山になるなんて、想像もしていなかった。
いや。空虚な音が耳元で聞こえた時にはもう既に空っぽのごみ箱が屑山になることは決まっていたのかもしれない。

『果てさて、二人の運命や如何に』

木ノ葉は他里に比べても比較的大きな里だ。人の流れも多い。だからこそ流行り廃りは水の如く変わっていった。そんな中で、今木ノ葉の里では風変わりな人形劇が人気だという。それがどんなものであるのか知らなかったが、朗々と鼓膜を震わせる一つの掛け声と足を止める数多の人々に、きっとこれがその流行りであるのだということを漠然と理解した。
風の噂程度に流行りを耳に入れていたが、これほどまでとは。そんな人の多さにただ目をやり、過ぎ去ろうとしたのだ。最優先事項の買い物をするために。
けれど足は何かに絡め取られたかのように動きを止め、剰えその何かが手招くようにして足を人形劇に向けたのである。

「……」

寒空の下、小さな広場に集まる老若男女の人だかりの中に、その何かはまるで意識を乗っ取られでもしたかのように佇んでいた。
忍にしては華奢なシルエット。隊を組んだ時、その影は必ず俺の横にあった。後ろをついてきているようでいて、その実俺が見てきたのは沙羅の横顔ばかり。今もそうだ。傀儡劇に足を向けた人だかりの中で見つけたのは、見知ったなだらかな顎のライン。人の話を聞いていなさそうな態度でいながら、しっかりと物事をふるいにかけるほど冷静に物事を聞き分ける小さな耳。流れる黒髪はいつも通りひとつに括られている。
いつも通り。表向きは。
そんな声が頭の隅で聞こえたことに俺は慌てて首を振った。

『あの男と付き合うのは止めておけ』
『嫌よ。私はあの人が好きなの』

見世物を覗き込めば一人の老人が指先を蜘蛛の足のようにうにゃりとくねらせ、数体の人形をまるで生きている人間かの如く操っていた。老人のしわが寄った喉元から発せられているとは思えぬほどの声色の変化に度肝を抜かれる。芸を極めた男の生き様すら感じられるそれに人々は息を止め魅入っていた。
もちろん沙羅もその一人だ。

『でもあの人は私を好きだと言ってくれたわ』

老人が艶やかな女の愛の嘆きを叫ぶ。
昨日の今日。いや、そんなことはまったくないはずなのに、記憶の底からあの夜が思い起こされる。
「シカクさん……」と無い意識の中でさえ呼ばれた名前になんとも言えない感情がわいていることには気付いていた。気付いていて、そのものに目を逸らしていた。
それが正しい判断だと分かっていたからだ。
冷静を掌握しているはずなのだから。

『一緒に逃げてくださいますか』

女が縋るようにして男に囁く。
男は視線をちらりと流すが、一つ頷くと女の手を取って走り出した。

好きだとか、愛しているとか。どうして女はそう簡単に言うのだろうか。
物語を一から見ていない人間のくせをして、物語を語ろうとする。
女のことなどたいして知りもしないのに、女を語ろうとする。
その癖は良くないと、同僚たちには散々からかわれてきた。自覚はしていたのだ。自分が途方もなく厄介な人間でどうしようもない奴だということに。
けれど物語を、女を、一度立ち止まって考えるほどの時間は俺には与えられて来なかった。なにせいつ死ぬか分かったもんじゃないからだ。女が好きだとか愛していると言う言葉を簡単に口にする理由が理解できなかったのである。
秘めてこそ。なんて高尚でロマンティックなことを思っているのではない。
ただ惚れた腫れたを言葉にすることは、忍には意味がないことだと思っていた。
好きだと口にしてどうなる。愛していると言葉にしてどうなる。
そのあと直ぐに俺が死んだとして、もし仮に想いが通じれば相手を一人残すことになる。好いた人間に先に逝かれてしまうことほど絶望を感じることはないだろう。相手の心に深い傷を負わせるのだ。それが好きな人間に対してできることだとはどうしても俺には思えなかった。
ちらりと視線を沙羅へと移す。
あいも変わらず、その視線は傀儡師へと一心に注がれていた。

物語は転げ落ちるように結末へと向かって速度を速めていく。観客の、沙羅の息をすることすら忘れる静寂が辺りを包んでいた。
風がまるで演出かの如く男と女の行く手を阻むように吹き付けていった。
傀儡師の微かな手先の、僅かな動き一つが二人の運命を左右する運命の輪に見えた気がした。
互いを愛し合った男と女。
女の愛に、男は手を引かざるを得なかったのだ。たとえ男に家族がいたとしても。
自分をこんなにも愛していると告げる人間の行為を、拒めなかった。
その気持ちが分かるとか分からないではない。この物語は、傀儡師に命を吹き込まれた男は、そうなのだ。
もし。
もしこの二人が沙羅とシカクさんだったのなら。
邪推にも程がある。
そうは思えど、一度想像してしまった思考は源泉を探さねば納得できない発掘者の如く想像を掘り進めていく。自分の意思とは関係なく、まるで本能が正解を見つけねば許せないかのように。
沙羅が気持ちを自覚したとして。シカクさんを前に傀儡劇の女のように好きだと愛していると告げたとして。
シカクさんはどうするのだろうか。
きっと、そうきっと、あのシカクさんのことだ。上手く断るに違いない。
沙羅の気持ちを理解して、自分には妻子がいるとあの人好きのする笑みでやんわりと断るに決まっている。
正直沙羅がシカクさんの好みの女性でないことはヨシノさんを見ていれば分かる。
きっぷのいい姐御肌、シカクさんを尻に敷くぐらいの女性だ。沙羅とは大違い。
傀儡劇の男のように沙羅の手を取ったりはしない。剰え一緒に逃避行なんてありえない。
そう。ありえない、はずなのだ。
凪いだ風が男と女を運んだのは、国境に広がる馬酔木の咲き誇る峠。
そこで男はふと立ち止まり、女に振り返る。握られていた手がそっと離れた瞬間、自分の掌の中を寒い風が吹き抜けた気がした。
ほら見て見ろ、言わんこっちゃない。好きだなんだと言ったとて、最後は結局裏切られるのだ。想いを告げて、一度握られた手に受け入れられたと勘違いして最後はその手を離される。選ばれるのはどう足掻いても妻なのだ。女ではない。
想像通りの結末。思い通りの展開。予見される未来。
その全ての行き着く先に、沙羅の幸せはない。想いの届かない人間を好きになって傷付くのは沙羅なのだ。
そう。気付かなければいけない。この傀儡劇が何を言わんとしているのか。
最初は忍として生き続ける以上沙羅は自らを傷付けていく。それを傍で見ていることができなかった。沙羅はあまりにも忍に向いていない。優しすぎるから。あっと言う間に命を落とす人間を仲間として放っておくことができなかった。張り手をくらわせてまで止めようとした過去の自分に苦笑が漏れるほど。どうして自分が傷付く方を選ぶのだと。
だがその理由が想像以上にあっさりと分かってしまった瞬間、得も言われぬ苛立ちと言いようのない感情がわきあがってきた。

え。沙羅のこと好きなんじゃないの?

そう言ったアンコの声が今更になって耳元をリフレインする。掌握していたはずの冷静が救い上げた水の如く指の隙間からこぼれ落ちていくような気がした。
いつの間にか、俺は傀儡師が演じる男と女に釘付けになっていた。ごくりと唾が喉元を通り抜けていく。

この物語の結末は。

そう思った瞬間、一陣の風が埃を巻き上げ吹き抜けていった。
沙羅のいる方角から男の声が上がり、この物語を観るにはまだまだ早いだろうガキたちが前方で腰を浮かす。
人集りが風に視界を奪われる中で、俺は傀儡師の操る男と女に釘付にされたまま。糸で操られているはずの女の口元がまるで人間のそれのように愛に歪むのを瞬き一つせず見つめ続けていた。

女が懐から取り出した刀が鋭く光り、男の胸を一突き貫いていく。

『あなたを、愛しているの』

傀儡師の口から漏れる女の切ない愛の囁きが、一瞬にして俺をあの夜へと引き戻す。
ベッドに横たわる沙羅が青白い月明かりの下で意識なく呟いた人間の名前も。朧げになっていた筈の、無理矢理押し付けたような口付けもその意味も。
そしてそれは沙羅が気付かなくていいものであり、気付いてはいけないもの。沙羅の未来に暗雲を呼ぶものに違いないのだ。
けれど。
はっとした俺はぐわんと釘付けにされていた視線を引き剥がして沙羅を視界に。
その表情に、奥歯がぎりりと音を立てた。

男の血を浴びた刀が尚も赤を欲するように女の胸をも貫いていく。

『かくして、現世で悲恋に満ちた最期を遂げた男と女ではございますが……

傀儡師が男と女に宿していた魂を引き抜き、朗々と語り始める物語の終焉。
しかし俺はその全てを、お客の拍手すら右から左へと流しながら一点を見つめ続けていた。
人集りを押し退けて集団から慌てて去る柔らかな黒髪の後ろ姿を。
凍りついたあの横顔をきっと更に歪めているのだろう沙羅の後ろ姿を。

からっぽのごみ箱だったはずのそこに、またひとつ何かが放り込まれる音がした。

あの顔は、気付いている顔だ。



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