二世の契り−ゲンマ− | ナノ


千本を銜える


あの日から、どうにかできないものかと考える浅ましい自分が頭の隅で胡坐をかいている。

「いつからなの?」
「は?」

突如として肩に掛かる重みに面倒な奴に捕まったと溜息が零れる。そんな心中を知ってか知らずか、アンコは御構い無しにずしりと肩を組んできた。問いの意味するところは謎のまま。

「だからいつからなの?って聞いてるの」

下手糞な尋問にも程がある。イビキなんかが聞いたら呆れてものが言えないと言われそうだ。
しかしやっぱりアンコはそんなこと知ったこっちゃないと言わんばかりにぬるりと蛇の如き瞳を近付けた。相手の内側を盗み見ようとする此奴の瞳は昔からあんまり好かないんだよな、という心の呟きもやっぱりアンコにはどうでも良いことらしい。また一段階ずいと近付いた顔を思わず片手で払う。

「何の話だよ」

当然の答えにアンコはまたまたぁと脇を小突いてくる。沙羅の誕生日、その主賓の脇を小突いていたように。あの時、もしかしたら沙羅も少しばかり迷惑に思いつつこうして返事をしていたのかと思うと謎の同情が湧いてきた。同病相憐れむというやつだ。

「見ちゃったのよねー」

そう言って語尾をだらしなく伸ばすアンコはにたりと一笑み。嫌な予感しかしないと思った矢先には、その口元から沙羅の名前がはっきりと飛び出してきたのである。それも予想外の展開と共に。

「あんたが沙羅を背負って居酒屋から出てくるところ」

別に酔い潰れた人間を介抱してやっただけのこと。何一つ疚しいところを見られたわけでもないのに、あの瞬間を見られていたのだと理解した頭は急に何かを取り繕わなければと回転を始めた。きっとあの日の沙羅の唇の感覚が酔っていたとはいえ未だに鮮明に残っているからだと冷静な振りをして見せる俺に、アンコはそれでも追及の手を緩めようとはしなかった。

「一緒に飲んでたの?」
「ちげーよ。あいつが酔い潰れてたところに俺が出くわしただけだ」
「で、背負って帰っちゃんだ」
「……」

途轍もない勘違いが生まれそうな、そうでないような。ぎりぎりのラインを行くアンコの台詞に、これは間違いなく訂正を入れなければ後に大変なことになるのだろう予感がひしひしとする。迫るアンコの顔を今一度退けぴたりと「勘違いするなよ」と釘を刺す。そうでもしなければ次の日には当の本人まで話が飛んでいきそうな雰囲気だ。
しかし、その言葉を予想でもしていたのか、アンコは俺の言葉をそれこそあんたこそ何を言っているのだと言わんばかりに見つめ返してきたのである。対して変わらない身長だというのに、この時ばかりはやけにアンコが大きく見えた。

「え。沙羅のこと好きなんじゃないの?」

何を言い出すのかと思えば。やっぱり途轍もない勘違いをしてんじゃねーかと本日二度目の溜息。今度はアンコにも伝わるようにそれはそれは盛大なものを一つ。

「話が飛びすぎだっつーの」

俺は酔い潰れた沙羅を家まで送り届けただけ。そう、それだけ。
あの夜の出来事と唇に残る柔らかな感触に、月明りに守られるようにして眠る女の影。そんなものは無かった。そう何よりも鮮明に思い出せる記憶に蓋をする。そうしなくてはいけないとやけに騒ぐ胸が警鐘を鳴らし、アンコの言葉で引きずり出されるような気がした。
何度も何度も、どうしてと問うことを止められなった末に手を出してしまったことを、次の日悔いたばかりなのだ。
悔いてなお、それでも未だに沙羅が忍を辞めるにはどうすればいいのかを考え続けている。
否、沙羅が忍で在ろうとする根幹の気持ちを気付かせぬためにはどうすればいいのかと考え続けているのだ。浅ましいことに。
惚れた腫れたなんて可愛い話ではないのである。
けれどそれをアンコに告げたとして何かが変わるわけでも、妙案が浮かぶだろうこともないことは俺が一番良く分かっていた。
自身ですら把握も理解も制御もし損ねた名付けられる感情である。他人にどうやって説明すればいいのかも、説明できるだけの言葉も持ち合わせてはいない俺にとって、今はアンコの盛大な勘違いを解くことが唯一できることであることに違いはなかった。

「あれ?違った?」
「あぁ、全くもって違うな」

銜えていた千本をかちかちと鳴らす。歯に当たる小さな振動は昔から精神を落ち着かせるのに盛大な効力を発揮してきた。振動が齎すものは冷静である。落ち着けという自分への戒めだ。急いては事を仕損じるなんてことがないように。冷静に、慎重に。
千本は感情的になる自分を冷静であれと繋ぐ楔のような存在なのである。
それを、あの夜俺は沙羅の唇を塞ぐために吐き捨てたのだ。
かち、かち、と千本を鳴らしては思い出す青白い月明りの出来事に苦虫を噛み潰す。
それを勘違いしたことへの拒否反応だとでも受け取ったのか、アンコはするりと俺の肩へと絡めていた腕を解いた。
残念、とでも言いたげな視線を全部無視して、俺はひらりと保身のために身を翻した。
適当に別れを告げて去る背中に、アンコの何とも言えぬ視線が向けられていたことをこの時の俺は知る由もない。
勿論、「気付いてないんだ」という呟き一つも。

俺の思考は、あの日から沙羅が自身の気持ちに気付いてしまわぬようどうすればいいのかと考えることでいっぱいだったのである。
この気持ちが惚れた腫れたなんてものではないと信じて疑うことなく。
銜えた千本の振動が、冷静を手中に収めて掌握しているものと勘違いしながら。



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