二世の契り−ゲンマ− | ナノ


5センチで理解したとて


沙羅の家を知っていたのは偶然だった。
ふと散歩がてらふらふらと木ノ葉を散策していたら郊外の人通りの少ない路地から沙羅が音もなく出てきたのだ。

「おう」

と妙な挨拶をすればぺこりと頭が下げられた。
何でこんな所からと当り障りのない問い掛けをすれば、家がそこだからと路地を入って直ぐの建物を指差されたのだ。
おかげで意図せず俺は沙羅の家を知ることとなったし、沙羅も意図せず家を教えることになった。
それだけ。
案外他人の家を知る機会はその辺に転がっているのだなと、その時は空を見上げて雲が泳いでいるな程度に思ったのだ。
他意のないその行為が、何の因果か今役立てられようとしていた。
酔っ払った女を背負って歩くなんて男冥利に尽きる。そんなことを言ったのは誰だったか。とっぷりと夜も更けた木ノ葉の里を女一人背負って歩きながら、そうだアスマさんだったとにやけた顔が浮かぶ。そのなんとも場数を踏んで酸いも甘いも知ったような顔は同じ男としてカッコいいのかダサいのか。けれど妙な説得力を持っていたことだけは確かだった。きっと隣に紅さんがいたからだろうと。
俺は今、周りからどう見えているのだろうか。
泥酔した女を背負って、偶然知ることになってしまった家へ送り届けようとしている。それがアスマさんの言うところのカッコいい姿かと言われればどこか違うような気がした。

「ん……」

くぐもった声が耳裏を擽る。
忍としての在り方に気付き俺の意図しないところで向き合おうとする女。
出会ってしまったが運の尽きなのか、どうして俺がと思わないでもない。居酒屋で出会わなければ、沙羅が忍であろうと悩まなければ、今頃美酒に舌鼓を打って日頃の憂さを気持ちよく晴らしていたかもしれないのに。
どうしてか今、俺は平手打ち一つを見事にかましてしまった女を背にしている。
生来持つ生真面目さがそうさせているのか。はたまた馴染みの居酒屋の店主に迷惑をかけたくなかったからか。
結局理由はそのどちらもなのだろう。
ただ、酒に捧げられるはずの時間が沙羅の寝息に侵されていると思うとどうにも釈然としなかった。
時々寝息に交じって「怖い」という呟きが背中から俺の心臓を目掛けてちくちくと刺していく。
背負っている腕に微かな力が入ったことに気付いたとでもいうように、何度目かの小さな吐息が涼しくも生暖かくもない風に乗って首筋を這う。
怖いと呟く沙羅に当たり前だという答えしか示してやれない。冷酷に突き放してやることしか出来ない。それが沙羅を生かす道だと信じて疑っていないからだ。
それなのに、怖いと漏らした言葉には必ず「でも……」という言葉が続くのだ。
物事に反発する典型的な二文字。
ぎりと銜えていた千本から鉄の味が酒に溶け出すようにして何とも言い難い後味が口内に広がる。
俺が望んでいたことはこんなことではなかった。
あの一言も、あの一発も。
ただ忍を辞めてくれさえすれば良かったのに。
それだけだったのに。
これ以上この世界にいれば沙羅は確実に傷付いていく。それだけならまだいい。きっと今以上の恐怖に出会った時、また同じように立ち向かおうとしてしまうのだろう。立ち向かって、身を擦り減らして、結局は立ち上がれぬまま生きていくことすら辛くなる瞬間がやってくるかもしれない。
沙羅には、そんな不安を抱かせる何かがある。
中途半端な覚悟とか、忍として揺らぎやすい心とか。何より、沙羅は優しすぎる。何度そう思ったかしれない。ついには平手打ちに忍には向かないという言葉が溢れてしまう程に。
期せずして知ってしまった沙羅の家には問うても答えぬ女の体を弄るような真似をして鍵を見つけ出し踏み入った。
電気も点けずに押し入ったというのに、己の足はするすると前へと進みあっという間にベッドを見つけ出してしまう。月明りしか入り込む余地のない部屋なのに、どうしてこうも足取りが滑らかだったのだろうと考える。どさっと半ば投げ捨てるようにして沙羅をベッドに横たわらせれば、肩から重みが消え部屋を見回す余裕ができた。そして妙に足取りが滑らかであったのか。その単純な答えに行き着いたのである。
寝息だけが漂う部屋の中には小さなテーブルにソファーと冷蔵庫。あまり使われていないのだろう台所の側には小さな空っぽのごみ箱があるだけ。干しっぱなしの洗濯物があるわけでもなく、汚れたままの食器が台所に積みあがっているわけでもない。ましてや部屋の何処を見渡しても花の一つも活けている様子がない。殺風景。とてもではないが年頃の女が一人暮らしをしている空間とは思えなかった。生活感が無いのである。家とは暮らすうちに物が息をし始めることだと思っていた。何もなかった部屋に家具が増え、脱ぎっぱなしの服がソファーの背凭れに掛かったままになっていたり、台所には調味料が増えたり。そんなことを繰り返すうちに家が呼吸を始めるのだ。そっと家主と同調していくかのように。
それなのに沙羅の家は家主が帰って来たというのに全くと言っていいほど沙羅に馴染んでいないような気がした。それとも沙羅が家に馴染んでいないのか。
どちらであるかは初めて家に踏み入った俺には分からないことだった。
けれど一つだけ言えるのは、この家は兎角静かであるということ。沙羅の内面に横たわる恐怖のように寂しさが共存しているということだけ。

「寂しい奴」

見下ろした沙羅は相も変わらず眉間に皴を寄せて酔いの中で眠っている。
どうしてそうまでして忍で在り続けようとするのだろうか。
ベッドに注ぐ青白い仄かな月明りが唯一沙羅を部屋に漂う孤独から守る光に見えてしまったのは、俺が随分と沙羅に同情してしまっていたからなのだろう。そして同情を超えて気にかけ、心を寄せすぎてしまったからに他ならない。
最後に煽った酒が今頃になって効いてきたのか、思考が短絡的に途切れ始める。こうなっては碌な考えが浮かばないことは自分自身が一番良く分かっていた。
自分でも呆れるほどの甲斐甲斐しさで台所から水を汲んでベッドに腰掛ける。さっさとこれを飲ませて帰ろう。
そう思いそっと沙羅の体を揺する。しかし案の定うんともすんとも言わない。二人分の重さで沈み込むベッドに、思考を過る微かな欲望に慌てて首を振る。
これだから碌なことを考えられなくなるんだと自嘲すれば、さっきから一度たりとも呻かない沙羅は相変わらず月明りに守られるようにして眠っていた。
草臥れた目元には色濃い隈と眉間の皴。酒に溺れてぐったりする様に、こんなにも傷付かなくていいだろうと心の片隅に潜んでいた苛立ちが湧いてくる。
ベッドサイドに水を置いてその手をそのまま沙羅へと伸ばす。そっと酒に汗ばんだ前髪を梳いて分け、眉間にできた皴に触れた。ひたっと吸い付く指先に思わず息を飲めば、沙羅がこの部屋に来てからはじめて「うぅ……」と呻いた。
乾いた唇から漏れる酔い潰れた中に潜む悲痛な呻きに、俺は沸いた苛立ちのまま沙羅を組み伏せた。月明りから遮るようにして。
どうして忍で在ろうとするのだ。
どうして、傷付く方を選ぶのだ。
俺が道標に投げたあの一発も、あの一言も、沙羅を忍として奮い立たせるためのものではなかったというのに。
どうして。
苛立ちに任せているはずなのに、沙羅を組み敷く手は恐ろしいほどに穏やかだった。思わず髪を梳いた手付きはまるで慈しむかのようであり、呻き声を上げた唇をなぞる手は自分でもぞっとするほどに甘やかなものだった。

「どうして」

思わず呟いてしまった一言は見つめた唇から五センチの距離を置いて沙羅の寝息に吸い込まれていく。
問いの答えなど返ってくるはずはない。ましてや自分には。
そう思う要素しかない自分の立場がもどかしく、胸を漂う苛立ちは増していくばかり。
いっそのこと、直接この問いごと呻く唇に流し込んでしまえば。そうすれば息苦しさに答えが返ってくるだろうか。そんなことが思考の隅を過る。
組み敷かれた影に覆われた沙羅は守られる光から隔絶され恐怖と寂しさに飲み込まれていた。それが俺の手によるところだと理解していながら、そこから救ってやりたいという支離滅裂なことを思う。
そっと、ベッドが軋んだ。

「シカク、さん……」
「……」

問いの全てを押し込むよりも前に、俺の唇に放たれたのは沙羅が人知れず背を追っていた一人の影。その名を聞いた瞬間頭を急速に血液が廻る音がした。寄り添い覗いていただけの苛立ちがふっと栓を抜かれた井戸のように噴き出してくる。
そうか、そうなのか。
気付いた時にはぎりぎりと気付かぬうちに噛んでいた千本を吹き捨てていた。
沙羅は自分のために忍で在ろうとしているのではないのだ。
他人のために自分が傷付く方を選んでいるのだ。
そんな憶測の域を出ない問いの答えを、俺はふとした呟きから汲み取ってしまった。
どうしてなんて問いなど無意味だったのだ。
沙羅の中には既に誰のためという理由が存在していたのだから。
きちんと面と向かって言われたわけでもないのに、ただの酔っ払いの一言かもしれないのに。この時の俺はそんなことを考えていられるほどの余裕を持ち合わせてはいなかった。
ただ、沙羅のためにとしてきたことが予想を外れて沙羅を忍として在り続けさせようとしていることや、その原因がシカクさんかもしれないことに思考が飽和し切っていたのである。
それでも、きっと沙羅は自分の気持ちにまだ気付いていない。それだけは明言することが出来た。もし気付いていたとしたらこうして酒に頼ってまで一人で悩んではいないだろう。沙羅が人知れず背中を追っていたシカクさんの元へ行くはずだ。そしてきっとシカクさんなら、苦痛に歪んだ沙羅を見て放っておくことはしないだろう。
あの人も、とても部下思いの優しい人だから。
だからこそ、その思いには気付かせたくない。
気付いてしまったら沙羅はより一層シカクさんのためにと忍で在ろうと自らを傷付けていくに違いないのだから。
大きく軋むベッドに構うことなく、乱暴に起き上がり持ってきた水を口に含んだ。
呻きたいのか、その苦しみを飲み込みたいのか。どうしたらいいのか分からないと言わんばかりの沙羅に、俺は再び「シカクさん……」と呟いた唇を強引に塞いだ。
捻じ込んだ水分がそのまま悩みも、気付いてしまうかもしれない思いも、沙羅の腹の底へと押し込んでくれることを願いながら。



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