二世の契り−ゲンマ− | ナノ


捧げられた時間


大人の楽しみ。
それは好きな酒に許される限りの時間を惜しみなく捧げられることだ。
今日はそんな日。
久しぶりに丸っと一日休暇を頂戴していた身で馴染みの飲み屋の暖簾をくぐった。
今日はどんな酒が仕入れてあるのだろうか。そういえばこの前飲んだやつは美味かったな。そんなことをぽつぽつと考えながら許される限りの時間を好きな酒に捧げようと決めていた。日柄任務には追われるのは忍の性であり、そこに生死が付いてまわるのも忍の常だ。だからこそこんな風に許される限りの時間を手にしている時はなんとも贅沢な気分になり、なれば好きなことに捧げてこそだろうと信念にも似た何かが飲み屋へ足を向けさせていた。
これからの時間は自分だけのものであり、自分だけが自由に出来るものだと思うと知らぬうちに口角が上がる。
滑らかな鼻歌までもが飛び出せば、いよいよもって舌を滑る酒の幻覚までもが現れた。
俺にとって捧げられるべき時間は酒にのみ許されるものなのだ。
それなのに。
どうしてだか暖簾をくぐった先。いつもの席と言う程には通い慣れた飲み屋のその場所に、このところやけに思考に割り込んで来る女が一人。カウンターに突っ伏しへろりへろりと意思があるんだかないんだか手を動かしていた。

「いらっしゃい」

そう言った店主も女の挙動が危なっかしいのか、その視線は入ってきたばかりの俺と突っ伏す女とを振り子のようにきょろきょろと行ったり来たりしていた。
いつもの席が空いていないと女を見やり店主が視線だけで訴えるので片手を上げるだけに止める。
この時、俺は選択を誤っていた。
ただ飲み屋が一緒になっただけの相手に関わる必要など微塵もなかったのだ。それこそ、時間を捧げるべきものが目の前にあるのだから。横目に見てまだ十分に空いている店の奥へでも行って美酒に舌鼓でも打っていれば良かったのだ。
しかし、どうしてだか俺の足は店の奥へ向かうこともなく、ましてや店を変えるために踵を返したりもしなかった。
ただ真っ直ぐにカウンターに突っ伏した女、もとい沙羅の元へゆっくりと歩み出していたのである。

「姉ちゃん、それは止めときなって」

俺の気配すら分からぬほどに泥酔しているのだろう沙羅は店主の制止も聞かぬままくてんくてんと芋虫のような手で酒を求めていた。

「だーい、じょぅぶです」

呂律の回らぬ舌ったらずな言葉は誰がどう見ても大丈夫とは程遠い。沙羅の無鉄砲な飲み方に呆れたのか店主は半ば迷惑そうに溜息を吐いた。
正直酒の飲み方など千差万別であり、それこそ自由だ。どんな時に誰と飲んだって構いはしない。それこそ、何のために飲むのか。それすらも個人の自由なのだ。俺のように好きな酒へ時間の全てを捧げようと思い飲み屋に足を運ぶ者も多いだろう。
そして、沙羅のようにまるで何かから逃げるように酒を呷る者もいる。
それでも、自由だと頭では理解していながら目の前で酒に溺れている沙羅を見ると手を伸ばさずにはいられなかった。その衝動が何かを、この時の俺は知らない。やっぱり生真面目な奴だからなのか、それとも。

「大丈夫っていうのはこんな所で酔ってる女が使う台詞じゃねぇんだよ」
「ゲンマ……」

沙羅の手が酒に届くまであと5センチ。その5センチを許さなかった俺は隣へと歩み寄り酒を手にした。この5センチを許せば沙羅は際限なく酒に溺れていくのだろう。それを良しとしなかったのは、店主が苦い顔をしていたからか、馴染みの店の空気を壊されたくなかったからか。それともやっぱり違う何某かが原因か。その正体を突き止める気はさらさらなかったが、手にした瓶の銘柄を見てぎょっとしたことだけは確かだった。たいして酒が強くもないだろうに手を出すには些か無謀な銘柄のそれを傍へと追いやる。
目的の物が目の前から忽然と消えたことに、くてんくてんと歩みを進めていた芋虫のごとき手が動きを止めた。
緩慢な動きで捻られた首はどんな角度で曲がっているのだと思わせるほどにぐにゃりとこちらを仰ぎ見る。その瞳に掛かるぼんやりとした靄は酒によるものか、それとも沙羅が悪酔いするほどに酒へと手を伸ばす理由によるものか。どちらにせよ放っておけばアンコ以上に面倒なことになることは明白だった。アンコは酔い方を知っている。自分がどこまで酒に強いのか、どういう飲み方をすればいいのか。自分と向き合って来たからこそ酒との付き合い方を心得ている。酒を飲むとは己と向き合うことだ。
しかしきっと沙羅は酒との付き合い方を知らない。
とろんと目蓋がくっ付きそうで付かない朧げな表情を横目にカウンターの椅子を引く。店主がどうすると目で問うものだから傍に避けた酒に視線を送る。渡された御猪口で呷った最初の一口は、ぎょっとした銘柄に相応しくカッと腹の底に沁みてくるものだった。
沙羅は諦めたのかまだ飲みかけだった酒を手元の御猪口に注ぎ入れる。傾け方もやたらめったらで、それは想像通り御猪口の縁からつーっと溢れ出した。その様に引っ張られるように沙羅の口からぽつりと言葉が溢れたのはそれから直ぐのことだった。

「わかったの」

その一言が何を意味しているのか。俺は早々に察しが付いていた。ちびりちびりと沙羅から遠ざけた酒は舌を滑らかに滑り落ち、今では腹の空気が上質な香りで満ちている。何一つ言葉にしなかったのは、沙羅の呟いた一言が俺に向けられているようでその実自分を納得させようと自身に向いている言葉だと悟っていたからだ。
沙羅の伸びてもいない爪が御猪口の縁を爪弾く。

「わたしが、向いてない理由」

何がと問わないことの意味を理解しているのかいないのか定かではなかったが、沙羅は突っ伏した腕に頭を預けたままそう呟いた。波打つ黒髪が微かな身動ぎで肩越しから一房流れ落ちていく。飲み屋の照明を受けたそれは酷く荒んでいるようで、その実目を奪う程には艶やかなものに見えていた。やはりこの黒髪は戦場にあるべきものではない。
蚯蚓が這ったような声を聞きながら一口、二口と杯を重ねる。
分かりきった理由が沙羅の口から酒気と共に吐き出されるのをじっと待っていれば、案の定沙羅は突っ伏したままこう告げた。

「殺されるのも、殺すのも。この世界じゃ当たり前のことだった」

忍の世界では万に一つの慈悲などあってないようなものだ。その中で殺す殺されるといった光景は日常茶飯事。俺たちはその中で日々生死を彷徨い守るべきものを守っていかなくてはならない。そんな当たり前のこと。分かりきった答えが沙羅の口から溢れたことに、この時どうしてだか俺の胸を不安が過った。
それは腕の隙間から覗く突っ伏したまま語る瞳が酒に溺れているとは思えぬほどに据わっていたからか。それとも。

「怖かったし、今でも、怖い」

沙羅はこちらが何かを発するよりも早く言葉を零していく。それはまるで御猪口の縁から
酒が溢れ出すように、己では止められる感情を吐露しているかのようだった。
沙羅が俺に良い感情を持っていないのは分かりきっていることだ。あれだけ散々忍は向いてないと生き様を否定されたのだから。更には平手打ちの一発も加えられては好かれる余地など1ミリとて無いのだろう。
けれど、だからこそ今こうして沙羅は自らの心の内を語っているのだろうことも分かった。
俺が何を言おうが言うまいが、沙羅にとってはそれこそ1ミリとて関係ないのだ。
ちくりと、酒が胸を焼いた気がした。
沙羅にとって俺の存在など空気も同然なのかもしれない。されど怖いと告げた瞳がじんわりと熱を持って向けられることに、ならば今それを語るなと声に出してしまいそうになった。
忍の現実を直視した女。
沙羅は自らを宥めるために言葉を連ねている。それは真実直視してしまった現実と向き合おうとしているのではないか。
過った不安がまた顔を出す。
酒が解決してくれるわけでもないというのに、縋らずにはいられない。きっと沙羅のことだから誰に相談することもできないでいるのだろう。ふと、沙羅が熱心に背中を追っていた一人の人物がこれまた脳裏を過ったが、あの人はきっと答えを簡単に示したりはしないのだろう。俺とて簡単に手を差し伸べてやる気はない。
あの一言とあの一発が生真面目な俺なりの最低限の手の差し伸べ方なのだから。
けれど、沙羅はそんなこちらの気持ちなど知らぬ存ぜぬなのか、あろうことか現実を受け止め咀嚼し飲み込もうとしていた。飲めもしない酒の力を借りてまで。

沙羅は忍の世界で生きていこうとしているのだ。この先も。

今こうして酒に溺れていることがその証拠ではないか。
ふと「違う」と告げてしまいそうになって御猪口の底に残った最後の酒を呷った。

「今更言ってんじゃねーよ」

辛うじて言葉に出来たのはそんな当たり前で酷くどうしようもない一言。
答えも手を差し伸べることもせずこんなことを言う奴を、それでも沙羅は1ミリとて気にすることはないのだろう。
ぢくぢくと、酒に焼けた胸から溢れる呆れと苛立ちに任せて熱い吐息を零した。

「ですよね、」

そう言った沙羅はやはりこちらの気も知らず、飲めぬ酒に飲まれてあっという間に夢の世界へと旅立っていた。
その様子に店主も気付いたのか、やれやれと苦笑を漏らした。
どうしたらいいかとこれまた俺に視線を寄越すものだから、何度目かの溜息の後に肩を竦めてみせる。
沙羅が飲み明かしたたいして多くもない酒代と、味も良く覚えていない己の酒代を合わせてカウンターに差し出せば店主はにこやかに「まいどっ!」と声を弾ませた。
潰れて意識の無い女を背負うのは人生で二度目だ。
一度目は怪我をした仲間の女を背負った時。荒い呼吸が耳元でしていたことをよく覚えている。
今は、そう考えて夜空を見上げるついでに耳を澄ませた。
規則正しい、けれど熱っぽい吐息がすーすーと耳朶の後ろを摩るだけ。
本当ならば今日、俺が時間を捧げるべきものは他にあったはずなのに。
そんなことを思いながらまだ鳩尾で燻るぢくぢくとした熱を呆れと苛立ちに混同して夜道を歩いた。
時折無意識に耳が拾う沙羅の吐息に、その呆れと苛立ちの正体を探りながら。



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