二世の契り−ゲンマ− | ナノ


あの一言も。あの一発も。


あの一言が。あの一発が。忍として生き続けることに対して沙羅の中に躊躇いを生むに値したのなら、それは価値があることだったのかもしれない。
けれど、それが沙羅を戦場で惚けさせているのも事実であるらしかった。
あの日から何があったのかを俺は知らない。
沙羅の誕生会の席で小脇を突いてきた時のように、数日後アンコがそっと耳元で沙羅の様子がおかしいと囁いた。
何かがあったのだろうことは想像に難くない。
しかしそれが何かというは俺の知り及ぶところではなかった。
あの一言が。あの一発が効きすぎてしまったのか。それとももっと違う何某かが原因か。
何はともあれ、あの日沙羅自身が発した"殺さないで"という一言が起因であり、俺の言葉と掌よりも小さな頬を叩いた一発が原因かもしれないと思うと、どうも気が気でならなかった。

「沙羅!」
「!」

同じ任務に就くなかで、その心は此処に在らずといった具合である。
感知を得意としているはずのその技は精彩を欠き、敵からの奇襲を受け交戦を余儀なくされた。
その在りように無理矢理逆剥けを爪で引っ掻くような不快感が押し寄せる。もしかしたらそれは沙羅がただ惚けているからだけではなく、その原因を作ったのが自分かもしれないということに少なからず気付いていたからだった。
目の前で沙羅の避け損ねたクナイが露出した肌を滑っていく。見慣れたはずの鮮血が生っ白い肌から滴る様を見て思わず言葉が口をついて出た。

「ぼさっとするなよ」

忍は向いていないと口にした。
けれどそれは忠告であり願望であって、こうして戦場に出てしまった以上は私情に惚けている場合ではない。それこそ殺るか、殺られるか。敵はこちらの事情など知ったことではないのだから。
あの一言が。あの一発が原因でもし命でも落とされてしまったら目も当てられない。
そんなことを思っていた。
しかし実際のところ、沙羅の心配をしているのではなく己の言動が死者を一人出すか出さないかに怯えているということにも内心気付いていた。
チッと打った舌打ちは戦場で行き交う死の渦に飲み込まれていく。

「大丈夫だから」

そう言って腕に一瞥もくれない沙羅にまた苛立ちが募ったのは、俺ばかりが沙羅を気にしているように思えてならなかったからだ。傷一つ作ったことにどうしてお前よりも俺が動揺しなければならないのかと、どこか空虚な瞳を視界に入れて思った。
俺が心配してやる義理もない。
あの一言も、あの一発も、全ては木ノ葉の戦力を確固たるものにするための助言であり行動にすぎないのだ。
伝う鮮血を気にも留めない沙羅を背に木々の間を飛び抜けて行く。
今は敵を倒さなくては。

「……」

それでも、まるで息を潜めた敵の捕縛にでもあったかのようにふと足が縫い止められた。
戦場の音が刻一刻と移動していく。そんな中で、あろうことか呆然と立ち尽くしてしまったのだ。沙羅のように。
脳裏を過るどろりとした血の跡。それがまるで今まで幾人もに向けられてきた殺意を思い起こさせた。
何度目かの舌打ちは、阿鼻叫喚に劈く敵の声よりも鼓膜によく響いた。
来た道を戻る。きっとそれはこの任務には必要なくて、きっと間違っているのかもしれない。そうと分かりつつ足が元来た道をひた走っているのは、俺が案外真面目で枠にはまっている人間だからだろう。忍らしからぬというやつが大概肌に合わないように、俺にとっての忍らしさとはこうして元来た道を戻ることだった。

「チッ」

咥えた千本から鈍い香りが味蕾に触れた。
遅かったと思わなくて良い状況だと眼前の光景は告げているはずなのに、どうしてだか一番に心を過ぎったものは"遅かった""間に合わなかった"というネガティブな表現しかなかった。
敵が沙羅に覆い被さるようにしてもたれかかっている。だらりと垂れた腕や擡げた首から生気は感じられない。
沙羅が敵を殺ったのだ。
殺るか、殺られるか。その世界の中で沙羅は殺る側になったのだ。それなのに、腰が抜け一歩も動けなくなってしまったかのような姿はまるで殺られる側のそれだった。
震える肩と引き結ばれた唇。苦痛と恐怖に歪んだ顔は、俺の心に苛立ちを超えた呆れを齎した。
無造作に沙羅に覆い被さっていた敵だったものを引き剥がす。苛立ちと呆れが混在して、傷付けるだろうことを知っても尚もう一度言わなければならないと、使命にも似た何かが俺に二度目となる言葉を吐かせた。

「だからお前は忍に向いてねぇんだよ」

ずるりと敵の胸を突き刺していた短刀から沙羅の手が離れると、肺が呼吸することを思い出したかのように沙羅は息を吐いた。同時に自分のしたことが何かを悟ると込み上げてくる吐気に耐えられなかったのか「うえっ」と生ゴミのような声を上げた。
生理的に流れ出たのだろう涙に気付いているのはきっと俺だけかもしれない。本人は吐気と襲い来る恐怖を宥めすかそうと掌に爪を立てることに必死なのだろうから。
その姿につくづく涼城沙羅という人間は忍に向いていないのだろうと苛立ち呆れ、そしてその先に待ち受けるだろう未来の姿を思い、もう既に屍と化した敵へと視線を送る。その胸には凶器としての凄惨さを見せつけるように短刀が深く深く突き刺さっていた。



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