二世の契り−ゲンマ− | ナノ


呑み込まされたもの


「あいつをどうする気ですか」

突然現れて不躾にもほどがある態度で食って掛かる俺に、目の前の御仁は愛煙する煙草をそれはもう余裕たっぷりに燻らせた。

「あいつ?」

まるで気付いてもいない。それでいて俺の放つ怒りにも殺気にも近い刺々しさは敏感に感じとる。その器用さが格の違いを見せつけられているようで、前のめりに先走った心が静止を促される。まるで前を歩いていた人間が唐突に足を止め、その背中にぶつかったかのような感覚。返ってくるその声は水面を滑るように穏やかだった。
知らぬ間に爪先に入っていた力を緩めれば少しは冷静さが戻ってきたのか、眉間の皺が伸びていく。その些細な動きが目の前の御仁にはつぶさに伝わっているかもしれないと思わせた。
この、奈良シカクという人間には。

「沙羅です」

知らないとは言わせない、とばかりに食って掛かる予定だった声は想像以上に静かでいて、思いもよらぬほどに深いものだった。まるでそっとあめんぼが水面に着地するように。シカクさんの纏う空気には小さな波紋ひとつ立ってはいない。とても静かな水面が広がっていた。
この時心のどこかでは、荒波を立ててはいけないという警鐘にも似た微かな思いが俺の心にはあったのかもしれない。
冷静に、話をするだけ。
相手にされない沙羅を、相手にしない相手からそっと引き離すだけ。それだけのこと。
過ぎったあの氷ついた表情と、集団を押し退けて去る後ろ姿の原因を取り除くだけ。
はやく、できるなら、今すぐに。
沙羅の名を出しても眉一つ動かないシカクさんは、何度目かの紫煙を空へと昇らせる。その先を追うだけに遠くへ放たれた視線が何を考えているのか、俺には分からなかった。
ただ一つ、沙羅の名を出したところでシカクさんの表情も、仕草も変わらない。その事実が妙な安堵感となって押し寄せてきた。傀儡劇を観て、もしもなんてことを考えた思考がいかに浅慮だったか。思わず小さな息が漏れた。
しかし、その安堵がそれこそ浅慮だということに気付いた時には、シカクさんはどこまでも遠くを、まるで俺を通り越して沙羅を見るような視線をこちらへと向けていた。
ふっと口角の上がるその仕草は何度となく見たことがある。作戦を立てて、まるで勝利への道筋が己の手の中に掌握された手応えを伝えてくるような、そんな笑みだ。任務に向かう前、これほど安心する笑みは他にないだろう。
けれどその表情に、今は嫌な鳥肌が立った。

「使うさ」

毛穴がぶわりと開いて、まるで聞いてはいけない言葉を耳にしてしまったかのような熱が全身を走る。ただ、沙羅を使うと言っているだけなのに。

「シカクさん、あいつは」
「替えが利く、か?」
「……」

二の句が継げなくなってしまった。
まるでどいつもこいつも同じようなことをぬかしやがるとでもいいたげに、シカクさんはいつものように頭を掻く。呆れを含んでいるのだろうそれに反論も肯定もできない自分がただ目の前で突っ立っていた。お前は違うと思ってたんだがな……という小さな呟きが紫煙に混じる。思わず口を開こうとした時、シカクさんは真っ直ぐと射抜くように俺を見据えていた。

「あいつにはあいつにしか出来ないことがある」

まるで沙羅の全てを、忍びとしての全てを知っているかのような言葉。何を言おうとしたのか分からずに口を開いた自分とは違って、その瞳も放たれる言葉にも迷いはない。嘘もない。沙羅の全てを使い尽くしてみせると言わんばかりの、自信に満ちた目に手汗を握り締める。

「あいつが、傷ついても……ですか」
「……」

虚しい抵抗であり出過ぎた行為だということは十二分に理解している。けれど言葉にしたことが沙羅のためであることにも確信を持っていた。だからこそ提言しなくてはいけない。

「あいつは忍に向いていません」

目上の人間に対する姿勢と同僚を使ってほしくないという我儘にも近い言葉が、シカクさんとの間に漂う。
シカクさんにとって沙羅は使える駒なのかもしれない。それはそれで別にいいたのだ。使える使えないは確かに指揮をとる人間の資質によるところが大きい。沙羅を使いこなせる人間がいてもおかしくはない。
けれど使えるという事実と使うという事象には大きな隔たりがある。
使われた人間は代償を払うのだ。心を殺すという代償を。殺し、殺されることを常とする、平穏な日常を犠牲にするという代償を。忍である以上、それは避けて通れない。
沙羅はそれに耐えられない。
少なくとも、居酒屋で酔い潰れ忍であることに真正面からぶつかってしまった沙羅には。
しかし、そんな俺の想いなどつゆ程も知らぬかのように。いや、シカクさんのことだから知っていて尚、ふっと煙草の灰をとんとんと落とす軽やかさに似た、余裕を象った笑みを口元に浮かべた。

「俺なら、あいつを活かしてやれる」

自信と信頼を感じさせる、迷いのない言葉。
それは使うという事象に対して、使われた者が払う代償すら背負っていくと自覚している本物の上忍の言葉だった。
俺が心の底で抱くもやもやとした感情なんて構うことのない態度に奥歯が痛いほどに噛み合う。
沙羅が傷付いているのをあなたも知っているでしょう。
沙羅が忍として危ういことも、噂話が立ってしまうほどに仲間から浮いていることを知っているでしょう。
シカクさん、あなたはそんな沙羅をまだ苦しめようというのか。そう叫びそうになる。
何よりどうしても俺自身が沙羅を忍でいさせたくなかった。
危なっかしい存在だからこそ、これ以上沙羅が壊れていくのは目にしたくない。
最悪の結末なんてごめんだった。

「お前、あいつのことをなめてやしないか」
「……」

歯軋りを繰り返した俺に投げかけられた言葉。
その言葉は沙羅を信頼するが故の言葉だと言うことは理解できる。
できるけれど。
本当にそれだけですか。信頼だけで紡がれた言葉なのですか。
俺は喉元を出かかった言葉を無理矢理に飲み込んだ。飲み込まなければ気付かせてしまう糸端をシカクさんに与えてしまうことになると知っていたから。
シカクさんも中にも無意識は必ず存在する。もしかしたらそれは今、俺しか知り得ないものなのかもしれない。少なくとも沙羅から見たシカクさんという人間は、信頼を超える存在であることには違いない。その逆が無いと、どうして言えるだろうか。
食い締めた歯が痛い。
此処で声を荒げてしまおうか。
あんたには奥さんがいるだろうと。
これ以上沙羅に関わってあいつを不幸にしてくれるなと。
あんたが沙羅を使うかぎり、あいつは不幸になっていくんだと。
しかし、それを口に出すことは終ぞできなかった。

俺の思惑も言葉も全て、シカクさんの目は知っているような気がしたから。



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