華ヤカ哉、我ガ一族 | ナノ

第壱話 災厄ノ日


生まれと境遇を呪ったことはない。
それはこの屋敷の主である宮ノ杜玄一郎に使用人として雇われた時から変わってはいなかった。
宮ノ杜玄一郎。
突如として現れた泣く子も黙る財閥の長は、没落しかけた落ちぶれ財閥を鶴の一声で丸ごと買い上げてしまったのである。
貿易会社として一時は名を馳せたであろう財閥であったが、現当主の手腕が良くなかった。
湯水のように資金を使えども、一向に井戸水は湧いてこない。
誰の目から見ても経営戦略は失策以外のなにものでもなかった。
それは世間から見てもそうなのだから、身内から見れば失笑も甚だしい。
しかし身内とは恐ろしいもので、まるで何かの信仰を崇める信者にでもなったかのように、自分たちのしていることを信じて疑わなかったのである。
間違えているはずはないと、空っぽの井戸を覗き込みながら空笑いを響かせていた。
勿論そんなことだから経営は傾く一方。
持て余すほどにあった財産も泡のように消えていってしまった。
仮初めの豪華さを纏った屋敷からは、追剥ぎにでも会ったかのように数多の物が資産の補填となり売り飛ばされた。
それでも一度出来た溝は骨董品や絵画。価値ある物を一つ二つ売ったぐらいでは埋まらぬ程になっていた。
借金なんて言葉がちらつきはじめた時、ようやく目が覚めたのか、落ちぶれ財閥とまで言われるようになってしまった一族の長はもうお終いだと毎日譫言のように呟いたのである。
そんな時だ。
落ちぶれ財閥に一縷の望み、いや希望の光が差したのは。

小春日和のある日のこと。
落ちぶれ財閥の門を叩く一人の執事の姿があった。
人間不信に陥っていた一族は門を固く閉ざしていたが、その執事が自分の仕えている主が話をしたいと申していると言えば、何事かとぎょっとして速やかに門を開け放ったのである。
その執事が仕えている主こそ、落ちぶれ財閥とは天と地ほどに差があった宮ノ杜財閥の当主、宮ノ杜玄一郎だったのである。
玄一郎は落ちぶれ何も無くなった屋敷を、最初の一歩目は財閥の現状を伺うようにして恭しく踏み入った。
しかし二歩目にはまるで使える駒でも見つけたように高らかに笑い声を上げ言い放ったのである。

「此処を買うぞ、平助」と。

屋敷の者は何が何だか分からず仕舞いだったが、平助がどこからともなく取り出した書類を見せると目の色が変わった。
元々玄一郎はこの落ちぶれ財閥を何の目的があってか謎だが買うことを前提に書類まできっちり揃え屋敷を訪れたのである。
実に一代で財を築いた宮ノ杜玄一郎らしいやり方だった。
しかし横暴にも見えるそれであったが、落ちぶれ財閥にとっては意外にも両手を広げて歓迎すべきことであるかのように書類を流し見た途端、ペンを取り署名していたのである。
それもそのはず。
落ちぶれ財閥にとっては井戸水の源泉が突如として湯水が湧き出したのと同義だったのだから。
藁にもすがるとはこのことである。
更にペンを走らせる速度を速めたのには、その書類の内容にも秘密があった。
まさか買い上げた会社並びに財閥を支配下に置かず、継続して落ちぶれ財閥当主に一切を任せるというではないか。
ようは買い上げるとは名ばかりの支援である。
勿論この玄一郎の行動には壮大な裏話があるのだが、この時の落ちぶれ財閥にはそんな広い視野などあるはずもなく、あの宮ノ杜が自分たちを認め支援してくれているのだろうと、これまた何かに取り憑かれているかのような発想が一族に伝染し署名から契約の全てをあっという間に完了させたのである。
しかしこの落ちぶれ財閥が宮ノ杜玄一郎の獣の牙を垣間見たのは、上機嫌な玄一郎が平助と共に屋敷を去る時の事だった。

「して平助、そういえば使用人が足りないと言っていたな?」
「はい。今年に入って二人も辞めてしまいましたので」

まるで先の見えぬ会話を繰り広げる玄一郎たちに言葉を挟む余地のない落ちぶれ財閥当主は、ただその光景を見つめるばかり。
まさかこの会話の顛末が自分に降りかかって来ようなどとは露ほども思っていなかったのである。

「そうだ、平助。よい者が此処にいる」
「此処に、でございますか?」

顔色一つ変えない玄一郎と平助は、まるで示し合わせたように落ちぶれ財閥当主の方へと優雅に首を回したのである。
それが作られた芝居であることは誰の目から見ても明白。
むしろそう見せるための会話であった。

「のぉ?晴一殿」

その人好きのする言葉とは裏腹な鋭い眼光に、はじめて全てを悟った落ちぶれ財閥当主はごくりと生唾を飲んだ。
それはまるで書類には書かれない、いつでも揉み消せる裏取引が今この瞬間行われようとしているとでも言うように。
能面でも被ったように顔色一つ変わらない執事に、断ればどうなるか分かるな?と言外に瞳に宿らせる宮ノ杜玄一郎。
鬼か邪がいたのならばこんな顔をして人に化けているのだろう。
そう観念した落ちぶれ財閥当主は、屋敷の奥からあるモノを呼ぶようにと傍にいた夫人に呼び掛けたのである。
一瞬躊躇った夫人ではあったが、夫があっという間に目の前の膨大な力に屈服する様を見て足早にその場を去った。
もしかしたら玄一郎にとっては、そもそもこんな落ちぶれ財閥を救うことなどに意味などあったのだろうか。
目的は初めから違うところにあったのではないか。
そんな疑念が今更のように湧き出してももう後の祭りである。
暫くして二つの足音が宮ノ杜玄一郎の前にやって来た。

「お初にお目に掛かります。涼城沙羅と申します」

それは春に咲く桜のように儚げでありながら、涼しげな目元は白蓮のように達観しているようにも見えた。
一本筋の通った背中はまるで彫刻のようなしなやかさを秘めている。
玄一郎は鳶が鷹を生んだのだと確信し、その存在に想像以上の収穫だと声を上げた。

「では晴一様、宜しいですかな?」

何が宜しいかなんて聞かなくても分かる。
美術品を愛でるように育てた愛娘が、まさかこのようにして手元から離れるとは思ってもいなかった落ちぶれ財閥当主は顔を真っ青にした。
けれど逆らえるはずもない。
愛しい愛娘が今、人質同然の如く連れ去られようとしているのだ。
しかし逆らえば一族の存続はありえない。
かけがえのないものを天秤に掛け、揺れる心は心拍数を上げていた。
とはいえもう時既に遅し。
落ちぶれ財閥の取る道は一つしか無いのである。
かけがえのないものを天秤に掛けているように見えて、その実既に未来は決まっていたのだ。

「宜しいですかな?」

最後通告である。
静かな広間にやけに響く執事の声は、真っ青に染まる落ちぶれ財閥当主の口から肯定の意を引き出した。

「......あぁ」

その返答に満足したのか、これまた玄一郎は腹の底から笑った。

「はっはっはっ、晴一殿。それではこの者は私が大切に預かるとしよう」

天井まで届くその声に、落ちぶれ財閥当主は自分の首にかしゃりと鎖が繋がれたことを悟ったのである。

「では行くぞ、平助」
「はっ」
「お前も付いて来い」

屋敷の敷居を跨いだ時とはまるで違う横柄な態度。
それこそが宮ノ杜玄一郎の正体なのだと知った落ちぶれ財閥当主であったが、その瞳の先には愛する娘の後姿しか映らなかった。
こうして落ちぶれ財閥からの預かりモノという名の人質として、涼城沙羅は宮ノ杜家で使用人として奉公することになったのである。
ただ一つ不思議だったのは、突如使用人として連れ去られた沙羅ではあったが、一度たりとも声を荒げず表情を崩さなかったのである。
それが後に千富に人形と言われる所以でもあるかもしれなかったが、玄一郎にはそれが少しばかり気掛かりでもあった。
けれど涼やかな白蓮の目元に、鳶が鷹を生んだのであれば一族の状況や自分の置かれている立場に物事を受け入れる覚悟があったのだろうと予想した。
この預かりモノは余程親よりも物事の本質を見極めているのだろうと感じ、愉快愉快とばかりに玄一郎は心の中で笑みを一層色濃くしたのである。





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