華ヤカ哉、我ガ一族 | ナノ

第拾話 兄弟喧嘩ノ水差シ


千富は正の誕生会のための準備として銀座へと買い物に出掛けようとしていた沙羅に声を掛けた。
急遽玄一郎からの頼まれ物をしてしまったからである。

「沙羅、買い物のついでに本屋へ行ってきて頂戴。旦那様が帝都公論を欲しいとおっしゃるのよ」

つい今し方お世話のために部屋へ足を運んだ際頼まれたのだという千富は、買い物に行く沙羅を見つけて丁度良かったと安堵の息を吐いた。
なにせ正の誕生会を催すための準備に朝から使用人たちに檄を飛ばしていたのだから。
全てを仕切る千富に外へ出る時間は無い。
誰かに買いに行かせようと思った矢先に、目の前にはお仕着せから着物へと着替えた沙羅が宿舎を出ようとしていたのだ。
沙羅が買い物に行くことを思い出した千富は、慌ててその後を追っていたのである。

「帝都公論ですね、分かりました」
「頼みましたよ」

玄一郎の買い物というこれまた重大な任務を請け負った沙羅は、買い物籠を片手に千富を振り返る。
無駄な時間を割いていられない千富にとって、こうしてついでとして用を頼めるのは有難いことだった。
使用人頭として甘い顔は出来ないが、使用人の誰もが己の務めを果たしていることはきちんと評価していた。
勿論沙羅についても。
使用人として奉公をはじめてから丸六年。財閥の娘として生まれながら使用人をするなど並大抵の人間が出来ることではない。
弱音一つ吐かない姿は賞賛に値したが、そのあまりにも冷静な姿に懸念を覚えもした。
この子はいつか、自分も知らぬ間に壊れてしまうのではないか。
そんなことを千富は六年もの間密かに心していたのである。
行って参りますという沙羅がいつも通り、そのすっと伸びた背筋を千富に向けて買い物へと出掛けて行く。はずだった。
それがこの日はふと足を止め千富に向き直ったのだ。
その顔には困惑の色が浮かんでいる。
ちらりと視線を左へと落とし、何かを考えているような素振りを見せる。
千富は思わぬ出来事にどうしたのかと声を掛けようとしたが、それよりも前に沙羅の瞳が千富を射抜いた。

「ご報告すべきか悩んだのですが、やはり千富さんに判断していただいた方が良いと思いまして」
「何かあったのですか?」

聞けば正の誕生会に、勇が強い酒を所望しているというではないか。
花見の宴でのことが相当腹に据えかねているのだろう。
犯人が正であろうというのは、もう既に屋敷中を闊歩している。
勇の耳に入らないはずはない。
この機に乗じて復讐しようとでもいうのだろう。
潰された酒で潰してやろうという魂胆なのかもしれない。
千富は相変わらずの兄弟たちに呆れを抱かずにはいられなかった。

「分かりました。その件については私の方でなんとかしましょう」

確か蔵に以前取り寄せた物があったはずと思い出した千富はそう告げた。
お願いしますと口にした沙羅の表情は、どこか安堵しているようにも見えたが、それをわざわざ言葉になどしない。
優雅に着物を着こなして出て行った後ろ姿を見送り、千富は蔵へ足を向けるのだった。

「千富さん、少しいいですかな?」

蔵に足を向けた先で、玄一郎の執事である平助が千富を呼び止めた。

「はい。何でしょう?」

平助は何か聞かれたくないことでも囁くように手を口元に当て囁く。
そこで聞かされた思いもしない話に、千富は目を丸くしたのだった。

「薬?!」
「はい。実は正様のお酒にはこの薬が入れられていたそうなのです」

平助はポケットから小さな包みを取り出した。
それは花見の宴の前に沙羅が正に酒に盛るようにと指示されていたそれではあったが、幸か不幸か平助が手に入れた情報は薬が入れられたというところまでであった。

「入れた張本人は分かりませんが、薬を仕入れたというやからコレを手に入れました」
「じゃああの日、正様のお酒にはコレが入っていたんですのね」
「はい。何でも西洋の薬らしく、盛れば酒の回りがいつもの数倍になるとか」

劇薬とか人を死に至らしめる物でなくて良かったとは思いつつ、おいたがすぎると千富は少しばかり憤慨した。
宮ノ杜の使用人をしていれば大抵のことに耐性が付くものだが、それは裏の出来事を上手く隠されているからだとも千富は気付いていた。
まさか表だって殺生なんかされてはたまったものではない。
それも兄弟で。
これ以上何かあっては大事になりかねないと判断した千富は、先ほど沙羅から託された勇の件について平助に相談することにしたのだった。

「勇様もそうとう腹に据えかねているようですな」
「えぇ。勇様はこのことは知ってるんですの?」
「いや……つい今し方得た情報ですので、勇様はあの日の酒を用意したのが正様であるということしか知らないはずです」

ならば尚更。
もし強い酒を用意して、潰れた正を嘲笑った後に切って捨てられては問題である。
正が行き過ぎたことをしたとはいえ、兄弟での殺生など千富は御免被りたかった。
強い酒を用意するのはやめよう。勇様にはきちんと頭を下げればいい。
そう提案しようとした時、まさかの言葉が千富の耳朶を震わせた。

「これを、使ってみましょうか」
「えぇ?!」

使用人らしくない声を上げた千富は思わず口元に手をやり声を抑えた。
玄一郎も玄一郎だが、平助も平助である。
長年玄一郎に仕えてきただけのことはあり、考えることは突拍子もなかった。

「勿論。勇様には内緒に、少しだけ」

分別をわきまえているようでわきまえていない発言は、千富の考える行為を花吹雪の如く吹き飛ばしてしまった。

「もう、知りませんわよ?」

呆れを通り越してどうにでもなれと思った千富に、平助は腹の底が知れぬ笑みを浮かべるだけだった。
当然、相談する相手を間違えたのだろうと思った千富ではあるが、もう既に後の祭りである。
正の誕生会が行われたのは、それから二日後のことだった。





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