華ヤカ哉、我ガ一族 | ナノ

第玖話 目ニハ目ヲ


花見の宴の一件以来、宮ノ杜勇の機嫌は頗る悪かった。
まさか己が酒の一杯で酔い、大将閣下や大衆の面前で刀を抜き挙げ句の果てに気絶をしてしまうなど、自分のことながら呆れて物が言えなかった。
酒に対する耐性に関しては、進には劣ると思えど、その他の者。特に正には負ける気がしなかったのである。
それほどまでに酒に関しては弱い自覚も無かったし、実際に下戸ではなかった。
しかし花見の宴では、たかが御猪口一杯で気絶したのである。
あの日の感覚は今でも勇の中に鮮明に残っていた。
一口含んだだけで前頭葉を圧迫される感覚。
ぐらりと海の波に攫われるように脳みそが揺れたと思った時には、暗転する視界に勇の体は自由が利かなくなり意識は途切れていたのである。
含んだ酒の舌に纏わりつくような苦味に、瞬時に酒の異常さを勇は感じていた。
そして目の前に映る光景に、体が怒りで炎の如く燃え上がったのだった。
ヴァイオリンの弦が一本一本切れていくような意識の中で、勇は玄一郎の膝に飛び込んだはるを切り捨てるために帯刀していた刀を抜いたのである。
勇の記憶はそこまでだった。
気付いた時には客間のソファに退避させられていたのである。
事の顛末を正や兄弟たちから面白おかしく説明された日には、勇はやはりはるを切り捨てなければいけないらしいと瞳を光らせたのだ。
勿論それは千富の鶴の一声で沈められたのだが、どこへぶつけたら良いのか分からない怒りを持て余した勇の機嫌は日々悪くなっていく一方だった。
勇にとって玄一郎の膝に飛び込んだはるは切り捨てるべき対象であったし、酒を用意した犯人も万死に値すると思っていた。
しかし何よりも許せなかったのは、何かが盛られていたとはいえ御猪口一杯の酒に酔い、大衆の面前で恥を晒した己自身だった。
勇は弱きことを殊更に嫌う。
弱い者は他人から虐げられ、利用される存在であるということを幼いながらに知っていたのだ。
それは玄一郎を見てきたからに他ならないのだが、勇自身生まれながらの境遇にして正という壁がいたことも弱さを嫌う理由の一つでもあった。
正は頭が良い。それは勇とて背中を見ていたから知っていた。
学で敵わないと思ったことなど無いが、それ以上に正を凌駕出来る何かが必要だったのだ。
兄弟といえど、この家には家族という集団心理が無い。
それぞれがそれぞれの個として存在する。
個であるが故に劣れば淘汰されるのだ。
それを理解していたからか、勇は幼い頃から弱さに対して敏感だった。
正を凌駕するためにと身に付けた武道や剣術は、今では他に引けを取らないと自負していたのである。
それが花見の宴に恥を晒すという弱味を大衆に。それも大将閣下の前で演じてしまった。
考えれば考えるほど、勇の沸点は低くなる一方だったのである。

「何?正が?」

そんな沸点の低い日々が一週間ほど続いたある日のこと。
不意に思わぬ情報を仕入れた勇は怒りに拳を握り締めたのである。
何故なら、勇が花見の宴で口に含んだ酒は正が用意させたものらしいという情報を仕入れたからだ。
驚くことに、それは勇のためだけに振る舞えと支持されていたという。
驚くことにと言ったが、話を聞いた勇は驚くことと同時に納得してもいた。
宮ノ杜正ならばやりかねない、と。
本当ならば今すぐにでも正の元へ行き、正を凌駕する力で切り捨てたい衝動に駆られていた。
しかしそうしなかったのは、勇の中にある名案とも言うべき策が浮かんだからである。
それは呼び止めた使用人が、ある準備をしているとメモを手にしているのを見たことに端を発していた。

「おい、お前」

黒髪を後ろで結い上げ、お仕着せを折り目正しく着こなした使用人。
涼城沙羅。
財閥の令嬢でありながら、自らの家が傾いていると知るや否や使用人に成り下がった空け者。
自らの品位を下げ、玄一郎に媚び諂う者。
弱い立場になることを殊更に疎んでいた勇にとって、自ら使用人になって淘汰される道を選ぶなど考えられないことだった。
考えられないが故に、この空け者の家も財閥としては大したことなどないのだろうと感じていた。
勇にとって沙羅は、強かで卑しい存在だったのである。

「はい、何でしょうか」

振り返った沙羅は小さなメモを片手に勇へと近付いて行く。
どうして呼び止めたのか。そんな些細な理由を勇は考えることなどしなかった。
ただもし理由を付けねばならぬのだとしたら、沙羅の後姿がやけに慌ただしかったからかもしれない。
いつもはお仕着せに無駄な皺一つ寄せること無く理路整然と屋敷を歩いていたその背中に、少しばかり皺が寄っているのが気になったのだろう。

「何をしている」

不粋な物言いだとは思わない勇は、いつも軍人らしく他者に接していた。
それは勿論使用人に対しても変わらない。
上からの物言いに萎縮する者もいたが、沙羅はもう既に慣れたことなのか、顔色一つ変えずに告げたのである。

「正様の誕生会に用意するはずの物が届かないので、これから銀座に買いに行く所でございます」

片手に手にしていたメモは、買い物用のメモといことらしい。
それを知った勇は正という言葉に苛立ちを露わにしたが、ふと何かを思い付いたようにニヒルな笑みを浮かべたのである。
そうだ、そうだすればよいではない。
ぶつぶつと独り言を呟いた後に、沙羅に向かって閃いたという妙案を告げた。

「おい、正の誕生日に一番強い酒を用意せよ」
「強いお酒......」

勇の妙案は至極簡単なものだった。
酒で潰されたのならば、こちらも酒で潰してしまえば良いのだと。
まるで子供のような考えではあったが、勇としては目には目を歯には歯をということらしい。
正の片棒を担いだ沙羅がその言葉をどう受け止めたかは定かではなかったが、やはり使用人らしく首を垂れるのだった。

「誕生会の時にそれを正に注いでやれ」

意地の悪い、それでいて復讐に悦楽を見出すような笑みは宮ノ杜という豪華な装飾の屋敷には良く似合う。
告げることを告げて用が無くなった勇は、明日の正の誕生会が楽しみで仕方ないとばかりにほくそ笑むのだった。





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