華ヤカ哉、我ガ一族 | ナノ

第陸話 雅ノ見ル世界


「あぁ、来てくれたんですね」

正門へと向かえば、丁度出掛けるところだったのか、私服姿の進と粋な伊達男といった着物に身を包んだ勇が千富に見送られようとしているところだった。

「遅くなってしまい申し訳ございません」
「いいんですよ、気にしないでください」

頭を下げた沙羅に、進は相も変わらずの春の微笑みを向ける。
進はいつかどこかで怒ることがあるのだろうか。
そんな疑問が沙羅の頭にふと過ぎったが、次の瞬間には勇の軍人らしい掛け声が二人の間を割って入ったのだった。

「進、そのような使用人など放っておけ。行くぞ!」

まるで戦地にでも赴きそうな勢いの勇に、その背を追う進がはいはいとくっ付いて行く。
きっと帰る頃には形勢が逆転しているのだろうと思うと、沙羅にとっては少しばかり面白い光景に見えていた。

「行ってらっしゃいませ」

ばたんと硬質な音を立てて何事もなく閉まる扉に安堵する。
使用人にとって玄一郎や兄弟の見送りは、それこそ日常の一大行事だった。
何事もなく、という日は年中数えても珍しい方に属する。
珍しい方だからこそ、安堵して扉が閉まった日には胸を撫で下ろさずにはいられない。
沙羅はふっと一息つく心地がした。
けれどそこは使用人。一息つく間もそう長くは無かった。

「沙羅、手紙はちゃんと読みましたか?」
「えぇ......まぁ」

こちらも相も変わらずの歯切れの悪さ。
千富はそんな歯切れの悪さに、しかしながら辛抱強く、その相も変わらずに付き合っていた。
もしかしたら本当に千富には手紙の内容すら全てお見通しなのではないだろうか。
そんな予感も相まってか、沙羅は苦笑紛れに呟いたのだった。

「相変わらず、ですかね」

相変わらずという言葉にどれだけのどんな意味が含まれているかは、きっと沙羅だけにしか分からないことではあったが、千富はやはり千里眼でも持っていそうな慈悲深い声音で「そう」と告げるに至った。
千富は幾人もの使用人の、此処へ来た理由。此処を去る理由を把握していた。
しかしながら沙羅に関してだけは、玄一郎から告げられた預かり者ということしか分からなかったのである。
けれど、だからこそ千富にとっては他の使用人よりも此処へ来た理由は変わっているのだろうと思っていた。
なんたって一度は宮ノ杜でお客様として給餌をした涼城財閥の御令嬢なのだから。
横でお仕着せを皺一つなく着こなした沙羅に、やはりドレスの方が似合う人間なのかもしれないと心密かに思うのだった。

「それではお夕食の支度をしに行きましょう。博様たちが下りていらっしゃる時間ですからね」
「はい」

千富に促され食堂へと連れ立てば、そこには既に博と雅がテーブルに付いていた。

「お待たせいたしましたわ」
「千富ーお腹空いたー」

ぱたぱたと他の使用人たちが慌しく二人分の食事を用意する。
けれど何が気に入らないのか、雅は食事の支度にやってくる使用人一人一人に悉く不満の声を漏らしていた。

「ちょっと!これ僕が食べられないこと知ってるだろ!」

終いには料理にまで文句を飛ばす姿に、千富はいつもの如くやれやれと溜息を吐いた。

「雅様、これは料理長が雅様のためにと作られたものにございます。是非お召し上がりください」

まるで母親のように食べることを催促する千富は、使用人たちにとって救世主以外の何者でもなかった。
この宮ノ杜家にて雅を上手く扱えるのは千富だけかもしれない。
他の使用人たちでは、雅の機嫌を損ねるだけ損ねて、何一つ収穫無く終わることは目に見えていた。
そもそも宮ノ杜家の使用人が辞めていく四割以上の原因は、この宮ノ杜雅と言っても過言ではない。
使用人虐めというタチの悪い趣味がある雅は、他人から見たら何をそんなに身の周りに敵ばかりを作るのだろうと思われても仕方がないほどに使用人を毛嫌いしていた。
勿論、沙羅に対してもその毛嫌いはいかんなく発揮されている。
もしかしたら普通の使用人以上に、その毛嫌いには拍車が掛かっているかもしれなかった。
その理由が沙羅の経歴や生い立ちから使用人になったというところに起因するものであるかどうかというのは、誰一人知る者はいない。

「お待たせいたしました」
「お前の淹れた珈琲なんか飲めないんだけど」

沙羅が食後にテーブルへと置いた珈琲。
それを雅はまるで汚物でも見るような目で見つめた。

「そもそも雅、珈琲飲めないじゃん」
「ちょっと!博は黙ってなよ」

横ですかさずちゃちゃを入れる博は、雅のことなど気にならないのか育ち盛りの青年らしく料理長自慢の品々を胃に放り込んでいた。

「申し訳ございません。ただいま別の者に淹れさせますので」

使用人らしい定型文を口にするあたり、沙羅も雅の嫌味には耐性が備わっていた。
何故ならば使用人として奉公を始めてから六年間の経験が積み重なっているのだから。
こう言われたらこう返す。
そんなやり取りの定型文が沙羅の中にはしっかりと形成されていたのである。
しかしそれを雅が気に入るはずも、許すはずもなかった。
一向に折れない姿は雅を苛立たせ、また子供らしく癇癪を起こしムキにさせたのである。

「さっさと下げてよね!こんなもの!」

近寄った沙羅がティーカップに手を伸ばした瞬間。
わざとかわざとでないか。
それは本人のみが知るところではあるのだが、雅の手がティーカップを払い除けたことは事実だった。
ぱしゃん。
黒茶よりも深みのある液体が、ティーカップを下げようとした沙羅のシミ一つない真っ白な前掛けに水溜りのように広がった。
思わず足を引いた沙羅は、咄嗟に右ポケットを手で覆う。
その反応を見た雅は、また面白いものという名の、他人を責める理由を見つけ口角を上げた。

「進もよく此奴の薬なんか飲むよね。毒でも入ってたらどうすんのさ」

雅は知っていたのである。
進が今し方勇と共にやす田に行ったこと。進が飲みに行くという日には、必ず沙羅がポケットに薬を常備していることを。
雅は他人が嫌いだった。反吐がでるほどに。
しかし、だからこそ他人を逐一観察していなければ落ち着かなかった。
いつ誰が己に害を為すかを知らなければいけなかったのだから。
宮ノ杜玄一郎という強大な父を持ち、五人もの兄弟を前にして、雅は常日頃から神経を研ぎ澄ませて己が生きていく術を模索していたのである。
けれどそれは幼い雅の心を歪めるには十分な環境だった。
気付いた頃には宮ノ杜にも、己自身にも辟易したのである。
それでも宮ノ杜という家から逃れられない雅は、その溜まっていくいっぽうの鬱憤を使用人で晴らすことを思い付いたのだ。
財閥という環境で育ったからこその価値観に裏打ちされるように、この宮ノ杜では使用人と主という絶対的な主従関係があった。
それを雅は己の都合良く解釈し、使用人を射的の的の如く鬱憤晴らしの道具として用いたのである。
自分の行う行動に使用人が恐怖に顔を凍らせ引き下がり辞めていく姿を、清々しながら見つめていたのである。
もしかしたら、雅はそうすることでしか己を縛る宮ノ杜という強大な呪縛を振り払らうことが出来なかったのかもしれない。
そうしなければ憤怒のように体を纏う憤りに身動きが出来なくなってしまうということを本能的に悟っていたのだ。

「申し訳ございません。直ぐに片付けますので」

すかさずティーカップを拾い上げる沙羅を、雅は滓だと思っていた。
令嬢だった者が使用人になるなど痴れ者であると。

「もういい!千富、後で部屋に珈琲持って来て!」
「はいはい。畏まりました」

何がそんなにも気に障ったのか使用人一同には首を傾げる他なかったが、その原因の一つが沙羅であろうことは周知の事実であった。
雅はこと沙羅に関しては酷く当たりが強かったのである。
その理由について使用人たちは理解に苦しんだが、きっと普段から怒りっぽい雅に対して、沙羅が落ち着き払っているものだから相手にされていないと感じ憤慨しているのだろうと思っていた。
肩を怒らせて爪を噛みながら食堂を出て行く雅に構うことなく、沙羅はティーカップの片付けをしている。
そんな無反応が、もしかしたら雅のカンに触っているのかもしれないとは使用人一同誰も口にすることは出来なかった。
雅に何かを言うことが難しいように、沙羅に対して何かを口にすることは使用人たちにとって少しばかり勇気の要ることだったのである。

「沙羅、着替えてらっしゃい」
「はい」

まるで二人の緩衝材のような千富の姿に、やはりこの宮ノ杜家で雅の相手が務まるのも、こうして固まった空気を解きほぐすのも千富しかいないと、皆頼れる使用人頭に万謝を捧げるのだった。





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