華ヤカ哉、我ガ一族 | ナノ

第肆話 居場所ナキハンケチーフ


「あなたに届いていましたよ」

正と入れ替わるようにして倉庫に入ってきた千富は、懐から一通の封書を取り出した。
宛名も何も無いそれに、沙羅はまたかと千富の手から封書を受け取る。

「あなたのお母様はあなたのことを余程心配してらっしゃるのね」

封書の存在を知っていた千富は、全てを知っているのだと言わんばかりにそう告げた。
いつも通りの茶封筒。
二ヶ月に一回の頻度でやってくるそれは、沙羅の母親からのものだった。
使用人には遠方から子供たちの息災を願う手紙が年中届き、それは全て千富の手を介して使用人たちへと渡されていく。
だからこそ千富にはその封書の正体が分かっていたのだ。
それに、沙羅のような境遇に手紙を送ってくる者など限られていると。

「ありがとうございます」

何かの包みを隠し持ったポケットとは違う方のポケットへと封書を畳み入れた。

「後で読んでらっしゃい」
「......はい。もう直ぐお花見に使う食器の確認が終わりますので、そうしたら」

あまり歯切れ良くない返事を返すことも毎回のことだと知っていた千富は、一言「そう」と告げて踵を返した。
しかし歳の割にすらりと伸びた背筋を見つめていた沙羅に、倉庫を出ようとした千富は何かを思い出したように足を止めたのである。

「正さんのことですが」

どきりと胸に氷の礫でも落とされたような心地がした沙羅はしっとりと掌が汗ばむのを感じながらも千富の次の言葉を待った。
まさかあの会話を聞かれていたわけではないだろうが、沙羅にとっては水の一滴ほども外に漏れてはいけないのである。
なんたって使用人の首の皮が繋がるのか、はたまた人としての尊厳まで奪われてしまうのか。
そんな瀬戸際にいるのだから。

「あなたのことだから分かっているとは思いますが、決して首を突っ込んではなりませんよ」

流し目に交差する千富の視線に、沙羅は有り得ないことだとは知りながら、もしかしたら千富は全てをしっているのではないか。そんな風に感じたのである。
威厳、威圧。玄一郎の専属使用人はそんじょそこらの使用人とは格が違う。
目の付け所も、見渡している景色も。
沙羅は思わぬ形で何かの片棒をかつがされていることを知りながら、やはり知られたらまずいことなのだと再認識し、今一度兜の緒を締めることを心静かに誓ったのである。

「さてと、早く終わらせなくてはね」

一人残された倉庫の中で、膨大な食器をどこまで確認していたのかを思い出しながら、その日の半分を食器の確認や花見に使う小道具の支度に追われてしまったのである。
全てを完了したのは、尋常高等学校に通う五男の博や六男の雅が帰ってくる頃合いだった。
しかし埃っぽい倉庫から出てきた沙羅の前に偶然にも出会したのは、同じ制服と言えど学生服ではなく警察官の制服を着た四男の宮ノ杜進であった。

「あぁ、沙羅さん。ご苦労様です」
「進様、お帰りなさいませ。お早いんですね」
「えぇ。今日は勇兄さんに呼ばれていまして」

宮ノ杜進。
使用人の間では唯一宮ノ杜家でまともに言葉を交わせる人間として認知されていた。
特に母親の躾が良かったのか、女性には優しくすること。という紳士思考を持っているために、宮ノ杜に入ってきた新人の使用人は必ず一度は惚れるという女性泣かせの逸話まである人物なのだ。
母親の有吉文子との関係も良好で、宮ノ杜には珍しいまともな感覚を持った親子と言っても過言ではなかった。

「勇様と......ですか?」

はて、勇は今日何処かへ出掛けると言っていただろうか。
思い当たる節のない沙羅が首を傾げれば、「昼前に急に思いつかれたらしく、やす田に向かうそうです」と進がするりと答えを述べた。

「やす田に......」

まるで禁止用語にでも引っ掛かったような顔をした沙羅はちらりと視線を進へと向ける。
やす田と進という言葉がくっつくだけで、あまり良い予感がしなかったからである。
やす田とは、三男宮ノ杜茂の母が営みし高級料亭だ。
一見さんお断りのそこは、政財界やら何やら色々な大御所が集まることで有名だった。
そこの一番芸者である”揚羽”が宮ノ杜茂という種明かしはあるのだが、それはまたいつかどこかですることにしよう。
何はともあれ、そのやす田は高級料亭である。勿論良いお酒もお料理もたんまりとあるわけで。
そこで問題になるのが、進の酒癖だった。
意外にも兄弟の中では一番お酒に強い進は、しかしながら酒豪が故の失敗談も多々あった。
沙羅が使用人として奉公を始めた頃、正や勇に付き合って飲んで帰って来たと思ったら、二人をお酒で潰して自分も陽気に歌い宮ノ杜の正門で三人仲良く共倒れをしたこともあったほどだ。
付け加えるならばお越しにやって来た沙羅に抱き着き永遠と笑い続けるという珍事付きである。
沙羅は今でもその経験を忘れてはいなかった。
だからこそ進が飲みに行くと言った日には、お仕着せのポケットに薬を常備するようにしていたのである。
今日も後で薬を用意しておかなければ。
そう考えた思考を悟るように、進は何故かくすりと笑った。
何故笑われたのだろうか。沙羅は分からず小首を傾げる。
それに気付いた進は、やはり答えを述べるように告げたのだ。

「いつも薬を用意していただいてありがとうございます。もうあんな事が無いようにしますので」

進も、進なりにあの日の出来事を恥じているのか。
そう感じた沙羅は口元を桜の蕾が開くように緩めたのである。

「......沙羅さんって、」
「はい」
「あ、いや......」

口元に手をやり吃る進は、言うべきか言わざるべきかを逡巡した後に、ついには「まぁ別に言ってもいいことだとは思うんですけどね」と要るのか要らぬのか分からぬ前置きの後に言葉を継いだのである。

「沙羅さん、昔より良く笑うようになりましたよね」
「......そう、でしょうか」

まさかそんなことを言われるとは思ってもいなかった沙羅は、思わず進から視線を逸らした。
その顔には困惑の色が浮かんでいる。
桜の蕾がふわっと花開いたかと思えば、花冷えに引っ込んでしまったような、そんな感じ。
進は他人の顔色を伺うことに長けていたせいか、そんな沙羅の機微を敏感に感じ取った。
何か悪いことを言ってしまっただろうかと思いながらも、どうしてそんな顔をするのだろうかという疑問の方が先に胸を付いたのである。
どうしてという疑問に答えられるのは沙羅しかいない。
けれど視線を外してしまった沙羅はまともに目を見てくれそうもなかった。
進はこれ以上何かを言葉にすることは得策ではないと判断し、早々に会話を切り上げることにしたのである。
進にとって、沙羅はそれほど内面に立ち入る必要性の無い人間だった。
興味が無いわけでは無いが、そもそもが使用人という立場である。
それが進の立ち入る必要性の無さに拍車を掛けているのは明白だった。

「それじゃあ、そろそろ時間ですので」
「またお出掛けになる頃お見送りいたします」
「ありがとうございます」

恭しく首を垂れる沙羅の視線に送られ、進は自室へと引き上げようとした。
が、ある事に気付き踏み出した足を止めたのだった。

「進様?」

どうしたのかという表情をする沙羅に、進はいつも通りならばあるはずの物を制服のポケットから取り出した。
アイロンがけが綺麗に施された真っ白なハンケチーフである。
宮ノ杜の家紋が施されているそれを、徐に差し出したのだ。

「頬が汚れていますよ。どうぞこれを」

紳士的と言われる所以を垣間見た沙羅は、思わずどこが汚れているかも分からぬのに右頬を摩った。
勿論どこが汚れているのかが分からないため、進が柔和な微笑みで差し出すハンケチーフを受け取ることしか出来なかったのである。
きっと千富ならば御兄弟の物をお借りするとは何事ですかと口を酸っぱくして言いそうなものではあったが、相手が進だと分かるとすーっと波が引いていくように千富の口数も減るのだ。
終いには気を付けるようにという一言で終わる。
それはきっと、進のこの春の日差しのような微笑みのせいであろうと、沙羅は手にしたハンケチーフを見つめながら思ったのだった。

「ありがとうございます」
「いえいえ。それでは、また」

今度こそ本当に自室へと引き上げる進の背を見送った沙羅は、そのハンケチーフを使うことなくポケットへと仕舞おうとした。
しかし両方のポケットには、それぞれ何某かの包みと封書が入っていることに気付いたのである。
これは早く包みを文机に仕舞い、手紙を読んでしまわなければと感じ、沙羅は足早に使用人宿舎の自室へと向かったのだった。





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