紫苑のまぼろし | ナノ


疑惑


来る日も、来る日も。
彼女がもう来ないだろうと予感しながらも、例の場所へと足を向けていた。
何故か。
極論、俺自身がもう一度彼女に会いたいと願っているからにすぎないのだ。
あの息を飲む美しさと言葉を交わし、心が解かれていく気持ち良さに心酔してしまっていたのである。
けれど、彼女がもうこの場所へ来ることはないだろうことも何となく予感出来ていた。
今も額に残る柔らかな唇の感触がそれを裏付けるように日に日に熱を上げていく。
いつか分かる時が来る。そう告げた彼女の言葉が別れの言葉であると、心のどこかで無意識に悟っていたのだろう。
それでも、俺は毎日のように通い続けていたのだ。無意識の悟りを、現実にしないために。
机の上に出しっ放しになっている雲のように真っ白なハンカチをポケットへ忍ばせることが、ここ数日の日課となっていた。


「来ない……か」

当然のように漏れる吐息に、風が答えるようにして吹き抜けていく。
彼女が姿を消したその日から、何故か吹き抜ける風も甘さを失っていた。芳しい芳香を放つ紫苑の花が、一輪たりとも見当たらなくなっていたからだ。
昨日までは……。そう呟きたくなるのも無理はない。確かに彼女が姿を消すその日まで、この場所は紫の花弁を持つ紫苑の花で埋め尽くされていたのだ。
そして猫や犬、兎や鳥が彼女を守るようにして集っていたのである。
それが今はまるで季節を幾重にも重ねてしまったかのようにがらんどうとしていた。
縁側も数日しか経っていないというのに、随分と古びてしまったように感じる。
彼女が座っていた場所へ視線をやっても、当然その姿は無い。
あの妖艶な腰付きをした猫も、ぶんぶんと尻尾を振る犬も、雪のように白い兎も妙ちくりんな歌を披露する鳥も、何もかも俺の前から姿を消していた。
まるで夢でも見ていたかのような光景に空を見やる。

何処へ行った。
あんたにこれを返さないといけないんだ。

そう思いながら幸せの象徴である流れ行く真白の雲を見つめ、ポケットに忍ばせたハンカチを強く握り締める。その感触が唯一彼女と繋がっていられるものだと感じた手はやけに汗ばんでいた。


「いてっ!」

目の前で小さな少女が盛大に転んだのは、あの場所からいつも通り肩を落とし帰る途中でのことだった。

「おやおやまぁまぁ」

孫なのか、転んだ少女の元へと向かう老婆。少女に手を差し伸べるが、転んだことへのショックか瞳にめいいっぱい涙をためて今にも泣き出す寸前のような顔をしていた。
そして、案の定盛大な泣き声が道いっぱいに反響したのである。

「どこが痛いんだい?」

老婆は宥めるように優しく問う。それに答える少女は、足とはっきり口にした。見れば膝を真っ赤に染めている。
おやおやまぁまぁ、と老婆が鞄からハンカチを取り出すよりも早く、俺は二人の元へと足を運んでいた。

「見せてみな」

ぶっきらぼうな物言いと突如として現れた存在に警戒したのか、少女はびくりと肩を揺らす。
少女の足元を観察して大事無いと判断した俺は、ポケットに忍ばせていたハンカチを取り出し傷口へと当てがった。
白い白いハンカチが、ゆっくりと鮮血に染まっていく。
せっかく洗って綺麗にしたのにとか、人のものなのにとか、色々と思うところはあったが、体が勝手に動いていたのだ。
もしかしたら、彼女なら。彼女なら目の前の光景を目にしたら雨の日に俺にハンカチを差し出したように、少女にもハンカチを差し出すのではないかと、そう思ったのだ。だからこそ俺は迷うことなく少女の傷口を拭っていたのかもしれない。

「お兄ちゃん、ありがとう!」

治すことは出来ないが、そっと拭き取ってやれば少女は向日葵の花が咲いたように微笑む。
見つめていた老婆も、皺くちゃの顔を更に皺くちゃにして礼を述べた。
その行動にいやに恐縮してしまったのは何故か俺の方で、照れ隠しのように頭を掻く。
すると、老婆が俺の顔をじっと覗き込んできたのである。潰れていた目を最大限見開いて、まるで珍しいものでも見たかのような顔をして一言呟いた。
それはまるで、未来を言い当てる占い師のような力強さを秘めていた。

「紫苑の社へ行ったね?」
「え?」

紫苑の社。聞いたことのない場所である。

「ここから西へ、木ノ葉の里の端にある古びた社さ」

西へ。たった今、彼女が来ないと肩を落として来た道のりである。
ぞわりと、背筋に寒気のようなものが走った。

「昔は紫苑の花で埋め尽くされていた場所でね。木ノ葉随一の美観を誇っていたのさ」
「どうして俺がそこにいたと?」

口内にたまった生唾をごくりと飲み込む。

「坊やから紫苑の香りがしたからね」

そう茶目っ気たっぷりな微笑みが、何故か彼女の笑みと重なる。それほどまでに、俺は彼女の影を追っているのだ。

「でもおかしいね。あそこの紫苑は随分と昔に枯れて無くなったって聞いたんだけど」

気のせいかしら。そう可愛く笑って俺の返事など待たず、それじゃあと孫の手を引いて帰っていく老婆。
その二つの背中を見つめながら、俺はありえもしない可能性を頭に過ぎらせてしまったのである。

もしかしたら、本当に幻だったのでは……と。


「もう、まだ返してないの?!」

それでも、帰って母ちゃんに見つかってしまった血に染まるハンカチが、彼女は幻なんかではない。そう俺に訴え掛けているような気がした。





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