紫苑のまぼろし | ナノ


切望


連日降り続いた雨もようやく休憩を思い出したように止んでいた。
朝日がまだ乾かぬ足元を、水溜りと共にきらきらと照らし出す。
しかし、そんな爽やかな一日になるだろう予感溢れる中でも、喉は干物のようにからからに渇いていた。
それはもう、物凄く。
池から離れた魚が水を求めぴちぴちと飛び跳ね水分を欲するように、俺の足は当たり前のようにあの場所、あの人の元へと向かっていた。

紫苑の香りが雨上がりの空気に触れ一層の甘さを漂わせている。その匂いは目的地に近付けば近付くほど厚みを増し、まるで蜘蛛の巣に引っ掛かったように身体中にまとわり付いてきた。
まだ泥濘む足元にも構わず香りを掻き分けて進めば、お気に入りの場所がひっそりと姿を現した。
迷わず縁側に腰掛けごろりと寝転ぶ。
まだじめじめと水分を含んだ木が背中越しに冷たさを伝えた。
それでも、静けさと甘い香りがそんなことすら気にならなくさせる。
きっと、この脳天にまで届く艶やかな香りが彼女をこの場所へと連れて来るはずだと、この時の俺はそう信じて疑っていなかった。
気付けば、気持ち良さにうとうとと意識を持っていかれ深い眠りに落ちていたのである。


ぺろぺろ ぺろぺろ

「……!」
「……起きたのね」

体にかかる何かの重力と、顔を舐め回される不快感に瞳を開ける。
耳が捉えたのは、声すらも鞠のように丸く美しい曲線を描く沙羅さんの呟き。
きっと俺を起こすのは彼女の声なのだろうと予感していたからか、当たったことの嬉しさに知らず笑みが零れる。

「おはよう、シカマル君」

その声音に目覚めを促されるのは想像よりも心地良く、お腹の上で尻尾をぶんぶん振り回し今にもぺろぺろと顔を撫で回すことを再開しそうな犬すらも許せてしまえる程だった。

「俺、寝てたっすか」
「えぇ、ぐっすりと。私が来たことにも気付かないぐらいにね」

「おかげで貴方の可愛い寝顔が見れたわ」と茶目っ気たっぷりに言う彼女に、ぽりぽりと首裏を掻くことしか出来ない。
起き上がると犬はずるずると膝の上に移動し、胡座をかいた俺の足の間にぴったりと収まってしまった。
冴えはじめた思考と視界で辺りを見渡せば、いつぞやの動物たちが彼女と出会った時のようにわらわらと集っている。
勿論、彼女の膝の上にはあの妖艶な腰つきの猫が鎮座していた。

「考えごとをしていたら寝てしまったの?」

そう問う彼女の姿は、親父や母ちゃんに心配されているのとは違う気持ちを呼び起こす。強いて言うのなら、絡まりこんがらがっていた心の糸を紐解かれているような、そんな気持ちだった。

「いや、そんなんじゃないんすけど」

どこか歯切れ悪くなる口振り。けれど彼女はそれ以上追求しようとはせず、膝の上で欠伸を一つ吐いた猫の背をゆっくりと撫でながら「そう……」と小さく呟いた。
だからかもしれない。
問い掛けたにも関わらずどこか距離のある返事に、出会った日の微かな疎外感を思い出し食らいつきたくなってしまったのは。

「俺……」

ぽつりと口から溢れ落ちてくる言葉たち。それはまるで、神を前に膝を折る信徒のような呟きだった。
目の前の曲線の化身という女神に、俺を知ってくれなどと傲慢なことを思うのは烏滸がましいのかもしれない。
それでも、彼女に俺のことを知って欲しい。この紫苑の香り漂う世界から切り離さないで欲しい。そう強く思っていた。
だからこそ俺は彼女が猫を撫でながら穏やかに瞳を閉じている間も、奈良シカマルについて語り続けたのだ。
木ノ葉の忍であること、任務に失敗してしまったこと、少しばかり笑えるささやかな日々のこと。まるで屋根に溜まった雫がぽたりぽたりと落ちてくるように、ゆっくり、ゆっくりと。

「……頑張っているのね」

ふわり。
絹の羽織が頭に被さるような感覚。気付けば、猫を撫でていた柳のような腕がするりと頭に伸びていた。
語られた言葉と同じぐらいゆっくり、ゆっくりと俺の頭の形をなぞる手は、猫を撫でる時のように優しくも美しい曲線を描いていた。

「あんたと話してると、なんか落ち着くんだわ」

寝ていたはずなのに微かな眠気が喉奥を襲う。この感覚がリラックスしている状態だということを、俺はなんとなく理解していた。

「そう言ってもらえるのは嬉しいわ、とても」

ちらりと彼女へ視線を向ける。嬉しいと語るその口元が、瞳が、どれだけ美しい曲線を描いているのかが気になったのだ。
しかし向けた視線の先にあったのは、想像していたものとは幾分と違う美しさだった。
美しい。そう、確かに嬉しいと語る口元も、瞳も緩やかな弧を描いていた。けれど、微かに寄る眉間の皺が何かに耐えるようで寂しさを伝えてきたのだ。
あの雨の日と同じように。
どうして、そんな顔をするのだろう。
するりとひと撫でされた手が頭から背中へと落ち、温もりが遠ざかっていく。
雨の日、影っていく瞳の理由を求め急いた挙句答えを得られなかったことを思い出し、俺はただひたすらじっと膝に収まった犬を撫でながら待つことにした。
彼女が、何か大切なことを語るのではないかと期待して。
紫苑の花々が風に揺れ甘い波を作る。二人と動物たちの間を吹き抜けるそれに乗せるように、彼女はそっと口を開いた。

「でもね、それに溺れては駄目よ」

それと指されるものは何だろうか。きっと言わずもがな、この関係についてなのだろう。
落ち着くと言ったこの関係性に溺れてはいけない。呟いた彼女の瞳が、ちらりとやった視線を捉え真っ直ぐと見つめ返してきた。
そこに、美しい曲線は存在しない。
ただただひたすらに真っ直ぐと、糸がピンと張り詰めるような視線が向けられたのである。

「あなたが私やこの子たちに会うのは、きっと良いことではないわ」
「それって……どういう……」

息を継ぐ刹那。
捉えられた瞳が、蜘蛛に絡め取られた羽虫のように身動き一つ取れなくなる。
どうして良いことではないのだろうか。
そんな疑問をぶつけることがこの瞬間意味を持つとは思えなかったが、どうしても問わずにはいられなかった。
彼女に、この場所に、この気に入った世界の根幹に関わるような気がしたからだ。

「そんな怖い顔をしないで」

にゃー
猫がすたっと彼女の膝から降りていく。
女神の名に相応しい慈愛ある瞳を俺に向け、小さく微笑んだ。

「私も、あなたといるととても落ち着くの」

ならばどうして、溺れてはいけないなどと言うのだろうか。
俺は、分別なくこの世界に浸って生温く溺れていきたいわけじゃない。そう言葉にしたいのに、魔力が宿ったような瞳が言葉を紡がせようとはしなかった。
暫くして、考えていることなどお見通しだと言わんばかりに笑みを深めた彼女は、俺の頬へと再び柳のような腕を伸ばす。
するりと視界を掠めていく華奢な腕。左頬に添えられた手は雨のようにひんやりとしていて気持ちが良かった。
指を微かに動かし頬を撫で見つめられるというのは存外恥ずかしいもので、どうしたらいいのかと躊躇う。
けれど躊躇う俺に、彼女はまるで愛する我が子にでもするように美しい曲線を描いた唇を寄せたのだ。

まるで虫の羽音のように小さな音成らざる音。

額に感じる柔らかな感触は、間違いなく彼女の唇。ぞわりと額に集まる神経が、ぴくりと肩を揺らした。

「……いつか、分かる時が来るわ」

唇がそっと離れ、彼女の口からそっと息が漏れる。それを額に受け、言葉を受け止める。

にゃー

猫が鳴いたことにも気付かぬ俺は、ただ呆然と受け取った言葉を噛み砕こうとしていた。
気付けば、彼女の姿は目の前から影も形も無くなっている。
猫も、犬も、兎も、鳥も。
ただ残っていたのは、紫苑の仄かな甘い香りだけ。
一つ盛大な溜息を吐いて、俺は何度目かになるその場所を後にしたのである。
高く高く、陽が昇っていた。


「あら、そんな甘い香りを背負ってどうしたの?」
「え」

帰って来ると、洗濯物を干していた母ちゃんは開口一番そう尋ねた。
甘い香りの心当たりなど一つしかない俺は服を引っ張り、鼻を寄せる。
甘い、甘い紫苑の花の香りが染み付いていた。

「それと、シカマル」
「?」
「誰に借りたか知らないけど、こんな綺麗なハンカチちゃんと洗って返さなきゃ駄目よ」

そう言う母ちゃんの手元を見れば、あの雨の日に借りたハンカチが気持ち良さそうに空を泳いでいた。
甘い香りも、幸せの象徴である白さも、俺にとっては彼女との繋がりなのだ。

しかしその繋がりを感じた束の間。
美しき曲線の化身は、まるで天にでも帰ったかのように俺の前から姿を消したのである。

額に蘇るじんわりとした温かさに、ふるりと背骨が叫びをあげた。





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