紫苑のまぼろし | ナノ


融和


雨が続いていた。
肌にぴたりと張り付くように覆われた湿気のヴェールにうんざりしながら鉛の空を見上げ、一つ溜息をこぼす。
溜息などこぼして何になるかと言われれば何にもならないと答える他ないのだが、こう連日気持ち良さそうに空を泳ぐ真白の雲を拝めていないとなると溜息の一つや二つ出て当然に思われた。
と同時に、溜息に紛れて思い出すのはあの美しき曲線の化身。
真白の雲のように柔らかく清らかな笑みを湛えているにもかかわらず、少しの恐怖が付随する美しさにどこか孤独感と異質さを感じたのだ。
それをどうしてだか俺は気に入っていた。
明確な理由など思い当たる節は無かったが、強いて言うのであればそれは空気だと言えなくもなかった。
あの不思議な場所で出会ったからかもしれない。
紫苑の甘い香りに知らず知らずのうちに侵され、気付けばまるで体内に溜まる水のように当たり前に俺の中に存在していた。
故に無くなれば、求める。
降りしきる曇天を見上げ、湿気ていても関係なく喉が渇くことをぼんやりと本能が訴えた。
それに従い重い腰を持ち上げて、俺は美しき曲線の化身がいるかどうかも分からないあの場所へと足を運んだのだ。
ばしゃばしゃと番傘に打ち付ける無秩序な雨音を聞きながら。


「あら、また会ったわね」

美しき曲線の化身。
沙羅さんはこんな土砂降りの雨の中でも記憶通りの甘やかな笑みを浮かべて、じめじめと水分を含んで更に痛みが露呈しているだろう縁側に腰を下ろしていた。

「どうも」

軽く頭を下げ屋根下へと潜り込む。
「隣、いいっすか?」なんて聞く前に、彼女はさも当然とばかりに「早くいらっしゃい。濡れてしまうわ」と、品の良い水滴のような透明な声でそう告げた。
番傘を閉じ柱に立て掛ければ、そこにはあっという間に水溜りが出来、飽和した質量は限界を超えて広がっていく。
それをぼーっと見ていると、突然目の眩むような白さに視界を奪われたのだ。
それが彼女の差し出す皺一つ無いハンカチであったことは、声を掛けられるまで気付かなかった。

「これ、使ってちょうだい」

ぱちぱちと瞬きを数回。
冷静になった思考でハンカチを受け取り眺めれば、久しぶりの白さに驚いていたことを悟った。
雨が続くと白が消える。
綿菓子のような白い雲も、気持ち良さそうに風に泳ぐ洗濯物も。
それは俺の中での長閑な時間を象徴するものばかりで、そんな白さが連日見れていないことに辟易していたのだということを気付かせてくれた。

「こんな雨の日も考え事?」
「え」

全てお見通しだと言わんばかりの言葉に居を突かれる。
濡れた肩口を拭き動きを止めれば、彼女はくすくすと花がほころぶように笑み自分の眉間を華奢な人差し指でとんとんと二回叩いた。

「ここ。この前も皺寄ってたから」

その言葉に隠してもいない悪戯がばれたような心持ちになり、苦笑と共に肩を竦めてみせる。答えに満足したのか、彼女は「じゃあ一番良い時に来たわね」と、また美しい曲線の弧を描いて唇を引き上げた。

「どういう意味っすか」

雨に紛れてしまいそうな問いに、彼女はふと重い灰の空を仰ぐ。くいっと上がった顎から首にかけてのラインが、やはり美しき曲線の化身の名に相応しく、まるで重力に従い落ちてくる水滴一つ一つの縁取りに似ていた。

「この雨だから、あの子たちも此処には来ないわ」

あの子たち。そう総称されるものたちに合点がいった俺は、あぁと吐息のような返事のような答えを返した。
正直、言われるまであの子たちの姿形が全く見えていないことに気付いていなかったのだ。
言われてみればと視線を泳がせるが、あの高慢そうな白黒のぶち柄をした妖艶な腰付きの猫や、今にもわんわんと鳴き出しそうな犬。既にへんてこなリズムで鳴いていた鳥に、真っ白饅頭のような兎は影も形も見当たらなかった。

「だからじっくり考え事をするにはうってつけよ」

まるで良いことを教えてあげられたといった風に微笑む姿は、見目には似合わぬ少女らしさを感じさせた。
その姿に幾分と心が彼女に近付いているのだと気付いた俺は、よっこらせと親父のような掛け声をかけて彼女の隣へと腰を下ろした。
すると、反動のように彼女が音も無くすくっと立ち上がったのだ。まるでシーソーの片方が沈み込んだと同時にふわりと浮き上がるもう片方のように。
やけに姿勢正しい立ち姿に見惚れていれば、くるりと顔を向けた彼女に顔を覗き込まれる。
ぱちりと合う瞳に、緩やかなカーブの睫毛が羽ばたくのを見て、やはり美しい曲線の持ち主だと再確認する。

「あなたの邪魔はしないわ」

絶妙な首の角度で告げた彼女は、変わらぬ曇天を見上げ立ち去ろうと背を向けた。
その姿に、俺は思わず声を掛ける他なかった。
何故なら、この止まぬ土砂降りの中を傘も差さずに出て行こうとしていたのだから。
そして思い至る。そもそも彼女は傘を持っていたのだろうか、と。
俺の知る限り、傘は視界に自身の物が一つ。それしかなかった。
ならば彼女はどうやって此処まで濡れずに辿り着いたのだろうか。
そんなことをふつふつと考えていれば、彼女はおかしそうにくすくすと笑み、「大丈夫よ」と告げた。
何が大丈夫なのだろうか。
こんな雨の中を、傘も差さずに出て行って濡れないわけがない。
俺は反射のように立ち上がり、まだ水滴の滴り落ちる自身の番傘を手に差し出した。
男として、女を濡れ鼠よろしく家に帰していいわけがないという理屈に基づいて。

「濡れるだろ」
「……優しいのね」

またくすくすと笑んだ彼女だったが、「じゃあご好意に甘えて」と猫が戯れてきた時のような声で番傘を受け取った。
再び背を向けた姿に内心安堵する。
これで彼女をずぶ濡れにせず済むという、ちっぽけな男のプライドだ。
雨に掻き消されたのか音の無い足音が屋根下から出て行こうとする。

ばさっ

広げられた番傘の汚れも、彼女が差せば風流ささえ感じさせるから不思議だった。
番傘を打ち付ける雨音が痛々しい。
やはりこんな中を傘無しで帰さなくて良かったと再度安堵すれば、彼女はふと足を止めやおら振り向いた。

「シカマル君。貴方、よほど此処が気に入ったのね」

それは言及に近いものだった。
こんな雨の日にも来るのだから気に入っているのだろう、と。そう断言されているも同然だった。

「えぇ、まぁ」

勿論のこと肯定の言葉を紡げば、彼女は何故か雨音に比例するように沈黙してしまう。
微かに番傘の肢をきゅっと握ったような気がしたが、それよりも硝子のように透き通った瞳が何故か陰っていくことの方が気になった。
何かを思ったのか言葉を選ぶような素振りを見せつつ、それでも告げることを迷ったような複雑な表情を覗かせた。

「どうしたんだよ」
「……いいえ、なんでもないわ」

その答えに、どうしたと答えを急いたのは失敗だったと悟った俺は、なんでもないと答えた彼女のいつも通り美しい唇の曲線に諦めを突き付けられたのだ。

複雑な表情の意味するものを、雨のヴェールがその姿を覆い尽くし隠し消した後も知ることは出来なかったのである。
手には輝かしいばかりの真白のハンカチが、俺の不甲斐なさをきらきらと嘲笑っていた。





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