紫苑のまぼろし | ナノ


交差


「あら、珍しい」

その声は、まるで咲き誇る紫苑の花の香りのように仄かな甘さを帯びていた。

「あんたは……」

声に出したところで目の前に現れた人物の名など知らない俺は、あんたはと零した言葉の続きを繋ぐことが出来なかった。
紫苑の花々をそっとかき分けるように現れたその人は、霧から生まれ出たような上質で透ける絹の羽織を纏い、櫛の歯で綺麗に梳いているのだろうことが分かるほど緩やかに波打つ黒髪はなだらかに肩口から背中へと落ちていた。
花の香りのように仄かな甘さを紡ぎ出す唇は見ただけで葡萄の果実のように熟れていることが分かり、霧の中に差し込む微かな光のように鋭くも淡い輝きを放つ双眸は真っ直ぐと俺を捉えていた。
そのせいか、佇んでいるだけだというのに浮世離れしたようなオーラを醸し出しているような気がする。
この雰囲気は俺とは違った環境で生きてきた存在。たぶん、どこか良いところの出の人間なのだろう。
そう当たりを付けることは、母ちゃんの機嫌の良し悪しを察することよりも随分と簡単なことだった。
手入れの行き届いた指先で、透けるような肌色をした耳に艶やかな黒髪が掛けられる。
耳の形に沿って湾曲する髪が、闇夜に冴え冴えと栄える月の曲線に似ていると思った。
綺麗だ。そう言葉にならない美しさを讃え損ねた息をごくりと飲み込む。

「まさか人がいるなんて思わなかったわ」

くすくすと柔らかな風に吹かれ揺れる花々のように笑んだその人は、足元に擦り寄って来たあの妖艶な腰つきをした白黒のぶち柄をした猫をまるで楽器を抱き上げるように腕に収めたのだ。
猫はそもそも自分の居場所は此処だと言わんばかりに瞳を細め、尻尾をぺたんと振った。
そのどこか高圧的な態度が、腕に収めたその人の柔らかさと相まって不思議な魅力を帯びている。

「今日は甘えん坊ね」

ごろごろと上機嫌に喉を鳴らした猫は、その美しき人にすりずりと頬を寄せていく。
五本の指が猫を撫でるために絶妙な曲線を描いた。
あぁ、もしかしたらこの人は曲線の化身なのかもしれない。それもとびきり美しい。
そんなことを、気持ち良さそうに撫でられては喉を鳴らす猫を見つめながら思っていた。

「隣にお邪魔していいかしら?」
「え、あぁ」

惚けていた俺の横へ寄るその人は、猫を象った曲線をそのままに湿気て木目の荒い縁側へと腰を下ろした。
ちらりと上質な絹の羽織と木目の合さる部分へと視線をやる。
それは一介の忍には手の届かないだろう高価な羽織が擦れることを気にしたのか、はたまた座すその人の背中から腰へと流れる美しい曲線に魅入られた延長故か。
勿論俺がそんなところに視線をやっていることなどお構いなしに、その人はまるで赤子をあやすように猫を撫で付けたまま腰を下ろしたのだ。
音も立てない姿に美しさのフィルターが増し増しになる。

「素敵なところでしょう?」
「えぇ、まぁ」

えぇ、とか。まぁ、とか。あぁ、とか。
横からふわりと漂う香気に、俺は相槌ばかりを口にしていたことに気付かない。
くすくすと笑い出す、これまた綺麗な言葉ばかりを発してきたのだろう緩やかな弧を描く唇が、やはりこの人は美しき曲線の化身なのだという確信を齎しただけだった。

「此処を知っているのは、もう私だけかと思ったわ」
「いや、俺は知ってたっつーか偶然辿り着いただけで……」

そういえば、どうして此処に辿り着くことが出来たのだろうか。そんな疑問がふと頭を擡げる。
本当に偶然。漂う甘い香りと紫苑の花につられてこの場所まで辿り着いたのだ。
まるで、蜃気楼の中を歩むように。

「……そう」

俺の言葉を受けた美しき曲線の化身は、尚も猫を撫で付ける手を休めぬままふと宙へと視線を放った。
それは誰に呟かれたものでもなく、まるでそこにあるべくしてあった空気のような呟きだった。

「あんたはどうして此処を……」

同じ事を問い掛けているのだと直ぐさま察したのか、やはり緩やかな弧を描く上品な唇が花にでも話しかけるように言葉を紡いでいく。

「昔から、私の遊び場だったの。最近はあまり来れてなかったのだけれど」

遠い昔を思い出しているかのような口調に哀愁が漂う。まるで太陽が水平線に吸い込まれ、穏やかに夕暮れを連れて来たような、そんな口ぶりだ。
徐に猫を撫でつけていた曲線を解き、所々ささくれ立った縁側を指の腹で微かになぞる。ふと上げた視線の先が何を見ているのかは分からなかったが、過去の自分をその目におさめているのだろうことは想像出来た。
俺は言葉を持たない人形のように口を開くことをせず、ただこの美しき曲線の化身が作り出す雰囲気に酔っていたのである。

にゃー

まるで、さぁ構え。とでも言うように傲慢に尻尾を揺らしてひくりと髭を震わせ喉を鳴らす、あの妖艶な腰つきの猫。
それはまるで時間を告げる鐘の音のような響きを帯びて、時間という概念を思い出させた。
見上げればもうだいぶ陽が傾いている。
ふと腰を上げた自分の影が幾分と伸びていることに、想像以上の時間を費やしていたことを悟った。

「俺、そろそろ戻らないと」

困ってもいないのに首筋を掻いたのは癖でもなんでもなく、ただこの居心地の良い場所を離れないで済む口実が見つけられなかっただけ。出会って間もない美しき曲線の化身から何故か離れ難かったために起こした行動にすぎなかったのだ。

「そう。とても楽しい時間だったわ。ありがとう」

どこまでも滑らかな言葉触りが、ますますとこの場所に居座りたい気持ちにさせる。当初の目的も忘れ、纏われた絹の羽織のような言葉の数々に包まれたくなってしまうのだ。
別れを告げるために上げた腰がやけに重い。

にゃー

さぁ早く、構え構え。そう言わんばかりに声をあげる猫に、はいはいと答える穏やかな声音。その声に賛同するかのように、集っていた動物たちもピクリと耳を傾けた。犬はペタペタと尻尾を振り、兎は鼻をひくひくとさせ、鳥はヒューっと鳴いてその人の肩に止まる。
まるで幼い子供たちが読む絵巻物のような世界にこくりと息を飲んだ。
しかし同時に感じるのは、その世界から切り離されてしまったようなえも言われぬ孤独感。まるでお前はこの世界には必要無いと、猫が、犬が、兎が、鳥が。美しき曲線の化身を、まるで守るかのように寄り添っていた。
だからこそ、不意に吐いた言葉はそんな世界から切り離されまいとした俺の精一杯の足掻きだったのだろう。
どうしてとか、何故とか、理由ははっきりとしなかったが、俺がこの場所と空気と目の前にいる美しき曲線の化身に想像以上の居心地の良さを感じているということだけは確かだった。
出来るのならば、また会いたい。そんな言葉が思考にふつりと浮かんでくるほどに。

「名前……聞いていいっすか?」
「……沙羅よ。あなたは?」

まるで楽でも奏でるような手つきで猫を撫でつけながら、その人はやはり飴でも舐めているかのように甘い口元で沙羅と名乗った。
それは俺にとって美しき曲線の化身が、人の身を与えられ目の前に現れた瞬間だったのである。
それが故に恐ろしい。
崇めていたはずの神が降りてきたような、そんな錯覚に陥ったのだ。
いつもならば決してこんな思考には至ったりしないのだろう。けれど、今の俺はどうにも思考のネジが飛んでしまっているらしい。美しさに魅入られながら、微かに恐怖しているのだ。
それでも次に会うための布石を打つぐらい、俺は夢幻のようなこの場所と、美しき曲線の化身を気に入っていることもまた事実だった。

「奈良シカマル」

己の口から滑り落ちてきた名すら、紫苑の甘い香りに溶けていく。美しさと少しの恐怖が共存する不思議な心地良さに後ろ髪を引かれながら、俺はその場所を後にした。





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