いいひと | ナノ


「そろそろ行くか」

暖簾の先、隙間から垣間見える戸を眺めるというどうでも良い口実を建前に、添えられた温もりに身を預けてから少し。
耳の朶を指先で甘く挟まれ、存外冷たくなっていた耳にじんわりと熱が灯った頃。
隣から聞こえてきたのは当然の別れの挨拶。
戸に向けていた視線がゆったりと此方に動く。
それに合わせるように、頬に添えられた手はするりと離れて行った。ひんやりとした空気が冷たい。


「そうかへ。また、お越しなんし」

ツンと鼻腔に痺れが走り、意味も無いのにこみ上げてくるものを一時の気の迷いだと袖に振る。
気を抜いたら伸ばしてしまいそうになる腕に煙管を与えた。
何をつまらない演技をしているのだか。
我ながら呆れる程に空々しい。
何かが飛び出しそうになる口に煙を押し込めれば、もう少しはましになるだろうか。
そうして息苦しい胸の痼りを煙に混ぜて吐き出してしまえば、この奇妙な気持ちも少しは治まるだろう。
お客人の確かな視線を感じながら、急き立てられるように煙草に火をおこそうと手を動かす。
そんな時。
くすり、こぼれ出る笑い声が耳に届く。
自分でも自分らしく無かったと驚いていたのだ。
大方、らしくもない動揺を表にした私が、可笑しかったのだろう。
お客人には、ひとりぼっちになるのを寂しがるお子に見えたに違いない。

煙管に任せるのも馬鹿らしくなった感情を持て余し、くすくすと漂う笑い声の主に視線を送る。
何が其処まで可笑しかったのか、滅多に見ない笑い顔に、また違った感情が胸に落ちてきた。


「これ、イタチ様。意地が悪うござんすよ」

釣られて溢れる笑みを頼りに、身を乗り出しお客人の頬に手を伸ばす。
カン。
煙管置きに粗雑に放られた煙管が鳴った。
火を熾す前の煙草が着物に散らばるのさえ、気にならなかった。
ぐっと近づいた距離、手の内には柔らかい笑みを湛えるかの人の頬。
医療とは関係なくお客人の頬に触れたのは、初めてかもしれない。
頬の冷たさや、無機質な瞳、不健康な白さばかりが目に付いていたはずなのに。
目の前にいるのはまるで別人だ。
血色の良くなった顔色も、緩やかに動く表情も、瞳を彩る長い睫毛が上下し、正しくかち合う感情の灯るそれも。
今迄見てきたのは一体誰だったのかと、そう思ってしまう程に、目の前に映るお客人は別人だった。


「まるで違うお人や」
「そんなことはない」

ぽつり、思わず零れた言葉に、複雑な意図が混ざる。
気難しい何処かのお姫様みたいな傲慢と、聖人君子のような博愛に似た何か。
整理しきれない感情が思わず外へと飛び出せば、お客人はまた一つ、含笑いを零した。
そうしてまた、己の頬に添えられた私の手を覆うように指を添わせてくる。
傾け擦り寄るようにくっつけられた頬。
手の平がやけに熱い。

ほんに、このお方は誰だやろう。
こんなにも穏やかな表情で、こんなにも心を許したようにされては、落ち着かないではないか。
じっと見ているのもこそばゆくて、目を逸らそうと睫毛が震えた、その時。
ぐっと、強く手を握られた。
指の間に絡みつく指先一つ一つが何やら恥ずかしく、また意図を持った様に手を握られて、伏せようとしていた瞳がまた目の前の御仁をとらえる。



「目を逸らすのは、何時だってお前が先だろう」





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