花骨牌 | ナノ

ろ姿


ゆっくりと、意識が浮上していく。
薄暗い部屋をぼんやりと見渡して、ああ、家に帰ってきたんだと認識した。
重い身を起こせばぎしりとベッドがしなり、やたらその音を響かせた。
自身の動きすら曖昧に感じる暗闇に、相当の時間寝てしまっていたことを理解する。
前屈みにベッドに腰掛け、無意識に手元を遊ばせればかつんと存在を主張する音がした。
その途端、意識はやたらクリアになって現実を連れてくる。

「はぁ」

手に当たるその感触に慣れなくて、思わず顔を顰める。
添え木に巻かれた白い包帯。
その存在が、今の俺にとっちゃ情けなさと弱さの象徴であることは紛れも無い事実で、同時に決意と覚悟の印でもあった。
サスケは戻って来なかった。
任務は失敗した。
仲間は、傷ついた。

俺が、もっと、もっと上手くやっていれば。
実力があれば。

今度は上手くやると誓った。
任務が成功するように。
仲間が傷付かないように。


はぁ。
視界を闇に落とし、切り替えるように息を吐いた。
ぱちりと両膝を手の平で叩けば、体は思ったよりも軽々と腰を上げる。

「とりあえず、飯」

ぐるぐると動き出した頭のままじゃ、二度寝も出来そうにない。


「あら、シカマル。起きたのかい」

下に降りれば、居間で茶を飲むかあちゃんに声をかけられた。
気を使って起こさなかったのだろう。
何時もはしつこいぐらいに心配やら注意をしてくるくせに、こういう時に限ってタイミング良く放って置かれる。

「親父は」
「ご飯の準備するから、呼びに行ってちょうだい」

離れに居るはずだから。
それだけ告げると、湯飲みをもって居間から出て行く母ちゃんの後ろ姿を見る。
きっとこれから夕飯の準備に取り掛かるのだろう。
親父も呼んで来いってことは、待っていてくれたのだろうか。

何時もはめんどくせーだのダルいだの言うが、今日ばかりは気持ちに似合う言葉が出ては来なかった。


「しっかし、何でまた離れになんか」

ギシギシと音を立てて渡り廊下を歩く。
向かう先はこじんまりとした部屋が一室あるだけの小さな離れ。
使うとしたら親父だけ。

時々小難しい話をそこでしているのは知っていた。
けれど近付くなとも、入るなとも言われたことはないし、実際にそうして怒られたこともない。
ただ、昼寝の為に使うとは贅沢な奴だと、そう言われた記憶だけははっきりと残っていた。

あれは幾つの時だったか。
割と最近だった気もするが、この際それはどうでもいい。
暫く使っていなかったその離れに、一体何の用があったのだろうか。



「……あれって」

ぎしり。
上の空で足に任せ歩を進めていれば、何時の間にか到着していた小さな離れ。
そこには父親とはまた別の、見知った人物が縁側に腰掛け夜風に当たっていた。

「こんばんは、シカマルくん」

当然のようにかけられた挨拶に慌てて返事をする。
親父が離れに居たのは紅葉さんと話すためだったらしいと、同時に理解した。
わざわざここで話すってことは、大事な話だったのだろうか。

「スンマセン、親父呼びに来たんっすケド」

話の邪魔だったら戻ります。

そう告げようとしていた口は、近づくにつれ香ってくる匂いに思わず閉じる。
見知った匂いが漂い、次いでにそれに飲まれる親父の姿を想像して口元が引き攣った。

「シカクさんなら」

俺の様子に構うことなく、彼女は開け放たれた襖の向こうを指差す。
頭を過る想像にまさかと思いつつ、そろそろと襖向こうを覗き見れば案の定、横たわった親父がそこにいた。

「よく眠ってるよね」

にこにことそう告げる紅葉さんは、特に何とも思っていないようだった。

しかし俺はそういう訳にはいかない。
恥ずかしいやら呆れたやら、先程までの殊勝な思いすら吹き飛ぶ勢いだった。

「紅葉さん、スンマセン」
「いいよいいよ」

子供に謝らせる父親を恥ずかしく感じていれば、やんわりと擁護の言葉をかけてくる。
呆れとむず痒さで頭をがしがしと掻くと、既に寝乱れていた髪は更にぐしゃりと垂れ下がった。

「今日はお疲れさま」

その疲れきった髪型をちらと視界に入れた彼女が、ぽんぽんと床を軽く叩きながら呟く。
片方の手には小さな盃。
ごくりと何かを飲んでいた。

「紅葉さんも、お疲れ様です」

鼻を掠める匂いからして酒ではないらしい。
ジュースのようなほんのりと甘い香りを嗅ぎながら、言われるがまま隣に腰を下ろす。

「どうだった」

顔をこちらに向けたまま穏やかに発せられたそれは、今の俺にとってはあまり歓迎できる言葉ではなかった。
何となく聞かれるとは思っていたが、自分のダメさを見つめ直すようで、やはり胸が重くなる。

「出来れば二度と御免っすね」

こんなに辛いとは、悔しいとは。
訓練とは大違いの痛み。
まともに働いている連中の気を疑う。


「そんなもんだよ。任務なんて」

盃を持つ指先を転がしながら何でもないというように呟く。
紅葉さんも、こんな思いをしたのだろうか。
穏やかに笑う顔からはとても想像などつかないけれど、
多分、こんな思いを乗り越えて今ココにいるんだろうと思った。

「忍をやめたい?」

変わりのない笑顔に、射竦められた。
親父の前で、火影の前で、チョウジが居た治療室の前で、
今度は完璧にこなしてみせると決めた決意が、ぐらりと揺らぐ。

言葉で否定するなり、首を振るなりしてみせろと、頭が訴えた。

「……俺は」

どの位の間、沈黙しただろうか。
やっと出た声は、変に掠れて頼りなかった。
決めたんだろう。
なら言ってしまえ。
言うべきだ。

急き立てる思考に後押しされた鼓動がドクドクと音を立てる。
体はビクリと驚いて、喉から出かかった言葉を引っ込めてしまった。
脳ばかりが動き回り、体が追いつかない。
何を躊躇う必要があるのかと、頭が促す。
苦し紛れに動いた喉から聞こえる音が、やけに耳についた。

それでも、声は出てこない。
彼女と目が合ったまま、金縛りにでもかかったかのように体は不自由を強いられた。

まるで試されているみたいだ。
俺が今ここで、どんな回答をするのか。
忍を続けるのか、辞めるのか。

それを何一つ変わらない笑顔で待つ彼女に、俺は気後れした。

紅葉さんは何も喋らない。
手に持つ盃を揺らしながら、ただ笑って待っている。
ゆらり揺らぐ液体が月明かりに照らされて、てらてらと盃を彩った。

「俺は」

深い深呼吸を一回。
気持ちを切り替える。

大丈夫。
もう誓ったのだ。
あの病院で。

たった数時間前に誓った己への戒め。
あんな思いをするのはもう嫌だ。
かと言って自分がいない所で仲間が傷付くのはもっと嫌だった。
だからこそ。
もう失敗しないと、誓ったのだ。

紅葉さんに再度問われたことで、体は自分でも気付かないうちに緊張していたらしい。
試されているようだと感じたのは、強ち間違いではないと思った。

ごくり。
唾を飲み込んでから口を開けば、先程よりは幾分マシな声が喉を震わせた。
やっと絞り出したその動力源が、真実俺の決意であること確認してふっと肩の力が抜ける。

もう、迷いも躊躇いもなかった。
思えば何故躊躇したのかと感じてしまうほどに、今の俺にははっきりとした決意があった。
もう、何も臆することなく言えるだろう。
そう思った。

自然と体重を片方に寄せ、彼女に前のめる。
やっと脳に追いついた体に任せ、次の言葉を告げようとした。
その時、

背後から、掠れた唸り声がした。
突然の音にびくりと肩を動かし振り返る。
なんだと目を見開いた先にいたのは、怠そうに起き上がる親父だった。
堂々と口内を見せながらカマした欠伸を視界に入れ、思わず盛大に舌を打つ。

なんてタイミングの悪さだよ。

がしがしと髪を掻きむしれば、それはもう無残な程に髪は重力に従った。
きっと何時ものキッチリした髪型など見る影もないだろう。
そんな俺の様子を見ていた紅葉さんが、くすりと声を漏らす。

やっとの思いで喋ろうとした俺のリズムが崩れたことが可笑しいのか、
それとも図ったとしか思えない親父のタイミングが面白かったのか、
鼻から抜けるその笑い声に、俺の顔は一気に熱くなった。

「それじゃぁ、私は帰るね」

垂れ下がった髪に間抜けな顔を晒した俺の肩をポンと叩きながら立ち上がる彼女。
いつの間にか空になっていた盃がはずみでコロンと横たわりゆらゆらと揺れた。


あぁ、そうだ。

彼女は足元に転がった盃を立て直しながら思い出したように口を開く。

「ご馳走さまです」

シカクさんによろしくと、寝起きな本人には目もくれずに俺へと告げてくる。
ゆったりと微笑むその顔が、親父に向くことは無かった。
彼女のあっさりとした引き際に、呆然と見送り生返事を返す。
紅葉さんの姿が見えなくなって、復活した親父に茶々を入れられてようやく気付く。

彼女の問いに答えられていない。

喉まで出かかった言葉が内へと押し帰り、ぐるぐると内臓を掻き乱す。
完璧に言うタイミングを逃してしまった。
けれど、だからと言って、追いかけていうような事でもない気がして。
ただ、言葉にしなければ自分の踏ん切りも付かないような気がして。
どうしようもない靄が身の内に漂った。


「お前はほんと、紅葉の尻ばかり追いかけてるな」

彼女が去った後をどうすることも出来ず見つめていれば、
どしりと隣に腰を下ろす親父がからかうようにそう告げた。
反射的に声を荒げ親父を睨み付ける。
手には酒の入った瓶。
紅葉さんが使っていた盃にそれを注いでいた。
先程まで感じていたほのかな甘い香りが一瞬で酒臭さへと変貌する。

「男なら女には背中を見せろ。尻を追いかけるたぁ、三下のすることよ」

今のお前のようにな。

横目でにやりと意地汚く笑う親父。
反論しようと咄嗟に口を開いたものの、なかなか言葉が出てこない。

そんなんじゃねぇよ。

ぼそり。
今の自分が言える意味を持たない強がりを呟くだけで、精一杯だった。

紅葉さんの後ろ姿ばかりを追いかけているのは確かだった。
俺よりも圧倒的に強い彼女が自分と同じタイミングで中忍になって、
ましては親父やアスマ先生から強いと認められる彼女を、意識しないわけがなかった。

彼女は一番身近にいる同年代の中で、一番強かった。

彼女のような強さがあれば。
そう思ったことは、確かにある。

羨ましがるのも格好悪くて、妬むのもおかしな話だから、
今までそんな思いを気付かない振りして放っておいた。

だからこそ、親父の言った言葉は真実過ぎて、何も言葉を返せなかった。


俺は彼女の背中ばかりを追いかけている。



「シカマルよぉ、口を動かすのは女の仕事だ。男のお喋りほど辛気臭いもんはねぇぞ」

口籠る俺を余所に、親父は酒を煽った。
親父の言葉を反復して気付く。

こいつ、聞いてやがった。

見られたくない所を見られたような気恥ずかしさと、こんな性格だったという諦めで口元が引き攣る。

「ま、なんだ。男は黙って仕事しろってこった」

俺の悔しげな様子に満足したのか、最後にグイッと盃を煽ってから重たげに腰を上げた。
何でも御見通しだというその態度に、突っ掛かりそうになってからグッと気持ちを溜め込む。
事実そうなのだ。
反論のしようがない。

「母ちゃんに怒られちまえ」

ゆったりとした足取りで離れから出て行く親父の背を見つめ呟いた。
せめてもの意趣返し。
負け惜しみから出た他人任せのそれは、まず間違いなく成功するだろう。
匂いだけで酔いそうになる程の量を飲んだのだ。
母ちゃんがなんて言うか。
そう想像するだけでも、十分俺の心はスッキリと晴れ渡った。

ぎしりと音を立てて立ち上がり親父の後を追う。
きっと親父も夕餉を食べてはいないのだろう。
なんだかんだと揶揄うしめんどくせー親父だが、こういう所は母ちゃんに似ていて頭が上がらない。

しょうがない。
これから親父はこっぴどく怒られるのだ。
今日の感謝分くらいは庇ってやらないこともない。

「……めんどくせ」

くわりと欠伸を漏らし、親父の背を見つめた。

明日からは少しは真面目に修行すっか。
そんでもって、今度こそ。

先に消えた親父に代わる様に現れた母ちゃんの怒声。
平謝りする親父の姿が目に浮かんで思わず出た忍び笑い。

めんどくせーけど助けてやっか。
代わりに修行をつけてもらえるよう頼もう。

面倒臭そうに歩を進める体とは反対に、気持ちは酷く前向きで軽かった。





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