彼女と俺の仲
「夜這いなら今度にしてくれ」
そよそよと夜風が通り過ぎる室内。
心許ない月明かりに照らされて薄青く光るシーツを顔に被せる。
ごろりと寝返りをうち月に背を向ければ、控え目な笑い声が部屋を埋め、月を遮る影がゆらりと現れた。
背後からやってくる影がシーツを黒く染めていく。
「折角お見舞いにきた後輩を追い返すんですか?」
影から発せられたその声音は、コツコツと床を鳴らす足音と同様に随分と軽いものだった。
俺の真後ろまできて歩みを止めた影は、尚もクスクスと可笑しそうに笑っている。
「時間を考えろ」
もう真夜中だぞ。
巻かれた包帯と痛む体に邪魔をされて中途半端に振り返り仰ぎ見れば、想像通りの笑みをたたえた彼女がそこにいた。
「私とゲンマさんの仲じゃないですか」
小首を傾げ笑う紅葉は実に楽しそうな様子でそう言った。
傷だらけの俺を見下ろすのが大層お気に召しているらしい。
普段は見ない角度から彼女の笑い顔を見上げる。
気分は専ら我儘な大名の姫に仕えるを家臣のようだ。
はぁ。
何を言っても帰りそうにないことを理解してため息を吐く。
こうなっては仕方ないので、未だに眠っている体に鞭を打ち重たい上半身を起こした。
一体何時まで付き合わされることやら。
見舞いとは言っているが、俺の勘が言っている。
此奴は世間話をしに来ただけだと。
他ならぬ上司である俺がそう思うのだから、それは間違いではない。
こんな非常識な時間の見舞いが罷り通ってなるものか。
もし目の前に立つのが別の人物であるならば、怒鳴り散らしてさっさと追い出していただろう。
そのくらい、遅い時間なのだ。
しかしそんな時間の来訪である彼女を呆れながらとはいえ迎い入れてしまうのは、確かに彼女の言う「私とゲンマさんの仲」という奴の効力なのだと感じ、肩をそっと下ろした。
「それで、何の用だ」
「だからお見舞いですってば」
表情を変えることなくそう言い切る彼女。
大蛇丸の手下にこっ酷くやられた先輩を心配して来た後輩を褒めてください。
そうでかでかと顔に描いてある様だった。
彼女の言葉を借りるなら、真実それはお見舞いであるのだが、その可笑しそうに笑う声と気遣いの無い時間の来訪に、どうしても素直に感謝出来ない自分がいた。
「お酒持ってきましたけど、飲みます?」
ほら、こういうところが。
「阿呆か」
全く悪意のない笑みで取り出された瓶に視線を向けてから、その誘惑を遮るようにもぞりと体を動かす。
「シカクさん秘蔵のお酒なのに」
勿体無い。
小机に置かれた瓶がごとり、存在を主張した。
既に蓋が開いているのか、微かなアルコールの匂いが鼻腔をくすぐった。
別段飲みたい訳ではないが、匂いにつられて喉が渇いた様な気もする。
ことことこと。
酒が注がれる音が室内を埋める。
此処が病院で、目の前にいるのが怪我人と知っていてやっているのだろう。
ほんとに可愛くない後輩だ。
「飲まないんですか」
控えめに注がれた杯をこれ見よがしに差し出される。
てらてらと輝いた水面に薄暗い部屋の天井が映った。
「いらねぇ」
首をくいと背けながら投げやりに答えた。
もはや俺を怪我人と認知しているのかすら怪しくなってきた相手に対して、俺は怒ればいいのだろうか。
「それなら私が」
くすくす。
俺の答えなど御見通しだったと言わんばかりに笑う紅葉。
差し出された杯がゆっくりとひかれていくのを横目で確認した。
どうせ飲む気などないくせに、そう言って俺を揶揄う気なのだ。
顔を背けたまま息を吐く。
甘やかしすぎたか。
そんな考えが頭を過ぎった。
かち、かち、かち。
今まで気にもならなかった音が急に耳につき始めた。
妙な沈黙に体がむずりと唸る。
何故こんなにも時計の音が耳につくのだろう。
こんな些細な音、紅葉といる時に気になったことなどなかったのに。
そこでふと、気が付いた。
アイツのへらへらとした喋り声が聞こえない。
病院でさっきまで喧しく病人をおちょくっていた人物の声が、途端、聞こえなくなったのだ。
「おい、」
まさか。
急に押し黙った紅葉に不安になって、背けていた首をグルリと回した。
若干見上げるようにしてベッド脇に立つ紅葉に視線を向ける。
映した先にあったのは、杯の底に描かれた見事な鹿の模様。
やけにユックリと杯を口に傾ける紅葉の姿だった。
それはもうユックリと、じれったい程に鈍く杯が傾いていく。
現れた鹿がその存在を主張していく程、杯に注がれた中身はゆるゆる彼女の口へと近づいていく。
描かれた深い藍の鹿。
その鹿が杯の底を力強く駈るのを見つめた。
かち、かち、かち。
時計の秒針よりもゆっくりと動く。
口元が杯に隠れてよく見えない。
まるで本当に酒を飲んでいるかのように見えた。
チッ
口内で舌を強く打ち付けた。
その音を合図に、軋むベッドも、痛む体もおさえつけて腕を伸ばし、先にあった白い器を強引に手繰り寄せる。
ぴちゃり、水の音がして、少しの酒が指を濡らした。
「あ」
紅葉の間抜けな声を他所に、手にした杯をグイと煽る。
喉を過ぎる熱と乾涸びた杯だけが残った。
「ガキにはまだ早ぇ」
カッと熱を持つ喉から声を発する。
何故か負けたような、惨めな気持ちが押し寄せて、沈黙を遮った。
「私がお酒飲まないって、知ってるくせに」
何をそんなに焦ってたんですか。
クスクスと可笑しそうに笑い出した紅葉。
先程の妙に静かな時間が途端終わりを告げる。
お前の演技にまんまと引っかかってやったのだという真実が、今の状態で言っても負け惜しみのようにしか聞こえないことを知っていて、この女は俺をからかっていた。
「お前なぁ」
空の杯を小机に置かれた酒瓶に被せ、その手でガシガシと髪をかいた。
鼻息荒く息を吐き、紅葉を見上げる。
口元に手をあて笑う紅葉は酷く可笑しそうに忍び笑っていた。
腸に湧き上がった怒りが逃げ、変わりに呆れと妙な親しみが満たしていく。
これが彼女の言う「私とゲンマさんの仲」なのか、それとも単に慣れが引き起こした錯覚なのか、とかくコイツのこういった笑い顔を見ると、何故か怒る気になれないのだ。
まったく、厄介な奴だ。
「そんなに機敏に動けるのなら、お見舞いは必要ありませんでしたね」
「そもそも見舞いに酒持ってくんな」
「いやですね、気の利いた冗談ですよ」
反省の色すら浮かべないその顔と口調に、俺はまたしても息を吐いた。
「それじゃぁ、私はそろそろお暇しますね」
一頻り笑った後、紅葉はそう言った。
これが見舞いだったのか小一時間ほど話したい気がしなくもないが、生憎俺は酷く後輩に甘いことを今しがた認識した。
ぐっと言葉を押し留め、さっさと帰れと手を払う。
俺の様子を見届けた紅葉は、ニコリと最後にもう一度笑うと、来た時と同じように窓に足をかけ外へと飛び出していった。
ほっと息をつき、彼女が帰ったことへの脱力のまま体をベッドへと預ける。
かち、かち、かち。
窓から入る風につられて顔を向ければ、紅葉がもってきた酒瓶が視界に映った。
杯の底に描かれていた鮮やかな鹿が、酒瓶にも施されている。
草木の間を駆ける鹿に向かって、やたら艶やかな紅で塗られた紅葉の葉が一枚、ひらひらと舞い落ちていた。
かち、かち、かち。
艶やかなその紅が、宵闇にも負けず発色し主張をする。
その姿が闇に紛れずとことことやってきた紅葉のようで、ふっと口元が緩んだ。
かち、かち、かち。
緩んだ意識のまま、やっと寝れると大欠伸をかまして布団に包まった。
閉じた瞼の裏に、まだ艶やかな紅がひらひらと己を主張する。
とんだ目立ちたがり屋だと、治りつつあった口角が上がり、クッと笑いが溢れた。
かち、かち、かち。
とりあえず、退院したら説教だな。
そんなことを考えながらもぞりと体を動かし、毛布を頭から被った。
どんな風に叱ってやろうか。
どんな風にアイツはそれを笑って受け流すだろうか。
今度は躱されてもキチンと怒鳴ってやろう。
かち、かち、かち。
やっと遠くなってきた意識で、そんなくだらないことを考えた。
布団で遮られた暗闇にも負けず揺れる紅と、紅葉の笑い顔が最後まで俺の意識から離れてはくれなかった。
かち、かち、かち。
しかし、静かだな。
そう思った記憶すら、曖昧に感じてしまう程、アイツのあの笑い顔は、鮮烈な記憶となって俺の意識を支配した。
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