△ カトレア 03
−−−からかわれるようになったのはあの時からだった。
『……はぁ!?ってことは年上か?
いくつだよそいつ。』
ぱっと、記憶が一瞬だけ憲兵団にいるときのマルクスの声に飲み込まれる。
その声が割り込んで来たのは女子同士で他愛ない恋愛話をしていた時だった。
休憩の合間、私達はくすくすとそれぞれの好きな人について話していて。
エマはどうなのと何人かに聞かれて、調査兵団に何年も前から片思いしてる人がいると言ったとき、マルクスが急にそうやって声を掛けてきた。
『なんで女っていうのは年上好きが多いんだ?
やめとけよ、お前じゃ無理だって!』
ムードメーカーの彼はいつものような軽い調子で。
考えないようにしていたことをすばりいい当てられた気がした。
リヴァイにはきっと相手にもされないって痛いくらい分かってた。
私なんかじゃ無理だって、言われなくても分かってた。
『何歳上でもいいでしょ』とその言葉に少しむっとして答えた気がする。
それからも度々そのネタでふざけてからかわれる度に、私は彼を軽くあしらったり、時には逆に、男性目線から年下の異性はどう見えるのか、どう思うのかなんて相談した…こともあった気がする。
恋愛経験豊富なマルクスの話はいつも一理あったのも確かだった。
だから私に年上なんか無理と言ったのだと、自分でも望みが薄いことは理解していた。
……だけど。
いつかマルクスが教えてくれた、年下も恋愛対象として見る男の人も少なからずいるという言葉が、当時励みになったのは事実だった。
リヴァイとの関係は家族愛に似たもののようで、それでも私はいつもそれ以上になれることを願っていて。
好きな相手には素直になるとか、駄目な時には諦めることも大切だと教えてくれたのも、確かマルクスともう一人の恋愛豊富な同期の女の子だった。
こうして思い返して見ると恋愛経験ゼロだった私に恋愛の基本を教えてくれたのはマルクスを含め、あの頃の同期の皆だったと思えて来る。
訓練兵団、憲兵団にいる間に同じくらいの年頃の子達とした色んな話の内のひとつだったけど、それが少なくとも今の自分とリヴァイの関係に繋がっているのかもと思えた。
優しく、時には強引に体を抱き寄せてくれるリヴァイのことを思う。
甘い言葉なんて彼の口からは聞かないけどその行動が彼の想いを全て伝えてくれるようで。
キスも、それ以上もあんなに心を奪われるものだと知ったのは彼から与えられるものだから。
思わず胸の中が暖かくなって、エマの頬は自然に緩み、ふわりと笑みが零れた。
「エマ…?なんだその顔は」
わけわからん、とでも言うようにマルクスが怪訝そうに戯けた見せた。
相変わらず変な奴………、
そう続けようとしたマルクスの声は、結局声にならなかった。
ふふ、と堪えきれず柔らかく微笑みつつこちらに顔を向けるエマから、目が離せなくなった。
流れるように、大きく波打つように形付けられた栗色の髪。
よく知る彼女とは違う。
どこが違う?
横から大きく取るように変えられた髪の分け目?
たったそれだけの事でここまで印象が変わるものか?
形の良い額に、少しかき上げられたように斜めに掛かる長めの前髪。
無造作のようで、とてつもなく女性らしい。
彼女が動く度にふわりとその細い肩で揺れて、たっぷりと艶めく。
整ってはいたけれどどちらかというと童顔だと思っていた印象は、今日の服装のせいもあるのか少し会わない間にすっかり大人びている。
今日はその上に軽く化粧まで乗せられているようだ。
元々果物のように薄く色付いていた唇には、今夜は少し淡いピンクが濡れたように光る。
「……うん。
まだ、すごく好き……」
その淡い唇が徐に動き、薄暗い中でもその頬がほんのり紅潮した気がして、マルクスは音がしないように唾をこくりと飲み込んだ。
「……っ、そいつに、ちゃんと伝えたのかよ」
唾を飲み込むタイミングと、言葉を発するそれが情けないほどに合わなくて少し声が掠れてたけれど、エマは気にもしていないように俯いてグラスに口を付けた。
「……うん」
こちらを見ていない隙に、思わずその姿にもう一度目を這わす。
ガキじゃあるまいし。
あからさまに見るなよ、と自分でも思うのに、見目が良いその姿から目が離せない。
出来る限り目に焼き付けたいと思ってしまった。
同期の中で恋愛に興味がないやつもいたが、会えもしないのに一途に同じやつを想い続けていたのはこいつだけだった。
周りは興味本位から付き合ったり試したりしていたというのに、固いやつだと、思った。
華奢な足首に巻き付くストラップが更にドレスから覗く両脚を繊細に魅せて。
白くて細い手首と足首。
それから、首筋ーーー。
触れれば柔らかく形を変えるであろう太腿と、細い足首のコントラストが嫌でも目に入ってしまった。
スカートというものを着慣れていないのか、無防備に腰掛けているものだから夜闇で黒く見えるドレスの裾は腿のかなり上の方まで上がってしまっている。
その上、その状態でいつも通り脚を組んだりするものだから、(おいおい)と内心突っ込みながら興味のないふりをしてマルクスは目を逸らした。
そういえば、こいつは目立たないだけで。
背筋もいつもピンとして、ガサツな素振りも無い。
それに気付いた何人かの男性兵士がこいつのことを時々噂していたこともあったっけ。
よく見てみると仕草なんかも女らしいんだよな、と綺麗に爪先に体重を掛けるその姿をもう一度ちらりと盗み見た。
「…そいつと付き合ってるのか?」
そんな見たこともない笑顔を見せるくらい何かを思い出してるってことは。
付き合ってるんだろ。
以前までのあどけなさの残るこいつなら兎も角、こんな大人顔負けの雰囲気のこいつなら誰だってうんと言うはずだ。
ふと、薄暗い中で見えたその表情が一瞬固くなった気がした。
何かを考え込むかのように長い睫毛が何度も瞬く。
照れた後に、少し戸惑ったように言いかけては口を噤んだり。
…なんだ、この表情は。
「つ、………付き合って……るの、かな?」
「……はぁ?」
逆に質問されてしまって、マルクスも拍子抜けしたようにひっくり返った声を上げた。
付き合ってないのか?
それすらも分からねぇって…どういう関係だよ。
「どういう意味だよ。
…お前が好きって言って、向こうも好きって言ったんじゃないのか?」
「う………うん、そうだったと…思うんだけど」
そうだと、思う?
何言ってるんだこいつは。
エマ何かを思案するようにグラスを両手で掴んで、困ったように俯くが、不意に口を開いた。
「あ、あのね。…付き合うって、どういう意味?」
「どうって、言ってもなぁ…」
真っ直ぐこちらを見つめる瞳が少し潤んだ気がして、そこから目を逸らすように正面を向き直してグラスを煽った。
甘ったるいジュースのような味がする。
「俺にもはっきり分からないけどなぁ。
どっか一緒に出掛けるとか、食事を一緒にするとか…なんでも良いから共有することで相手を手に入れることじゃねぇの?」
「共有…」
ぽつりとか細い声で繰り返して。
大きな瞳がこちらを見つめる気配がする。
不味い。
もしかしたらこいつと好きな奴の関係っていうのは普通じゃないのかもしれない。
それってどういう関係だ?
適当に両思いと言って、好きなように弄んでいるとも考えられる。
恋愛慣れしてる俺や他の同期のやつならともかく、こんな恋愛の基本も人伝に聞くようなやつに、そんな高度な関係をどうにか出来るわけない。
不倫だとか?
…体だけとかか?
今まで兵服に隠されていた白くて柔らかそうな肌は惜しげもなくドレスから露わになっていて。
細い細いと思っていたが、こうして見るとしっかりと女の身体つきをしている。
手足はすらりと伸びて、豊満とは行かないまでも充分な膨らみが見て取れる。
いや、実際に身体のバランスから考えると充分すぎるほど育っているのかもしれない。
見るからにそういったことに慣れていなさそうな雰囲気に、それでもその奥に蕾が開きかけているような危うさを感じる。
それはなんだか、無理矢理押さえ付けてこじ開けてしまいたくなるような、自分でも知らない欲を焚き付けるられるようで…。
こんな、感情的でよく流されるような性格のやつが。
変な年上の奴に言いくるめられて好きなようにされると思うだけでも気分が悪い。
内心舌打ちをした。
だから年上なんかやめろって言っただろうが…!
「…どこまでいったんだ、そいつとは」
「は、……えっ?」
マルクスが、先程より、いつもより低く呟く。
今度はエマが信じられないといった声を出した。
「………マルクス?」
「…最後まで、した?」
真剣な双眼がエマを見据えて、僅かに届く灯りを反射する。
夜闇の中では見知ったはずの彼の薄い茶色も色を失って見えた。
エマは膝の上に置かれた両手でグラスを握ったまま、文字通り言葉を失った。
困惑と羞恥の色が浮かぶその表情は、あんなに毎日一緒にいた友人とは思えない程艶やかさを含んでいて。
惹かれるようにマルクスは思わず身を乗り出し、それに対して少し頬を上気させたエマは怯むこともなく正面からその動作を伺った。
「な、なに言ってるの。…マルクス、もしかして酔ってる?」
警戒もない、ただただ恥ずかしそうに不思議がる声色が淡い唇から溢れる。
コト、とマルクスが不安定な石垣の上に手元のグラスを置いた音がした。
結露した水の粒が指先を伝っていく。
…こんなジュースみたいなもんで酔うかよ。
エマがやっと、びくりと肌を跳ねさせてからその身を引いたのは、いつもなら冗談交じりに伸ばされるその指先が、今日は本気で触れようとしていると気付いてからだった。
勝手が違う。
いつもの様にその手を払えずに、戸惑いながらそれを片手で拒む様に逸らすのがやっとだった。
それでも、伸ばされた手はそんな生温い制止には止まろうともしない。
「…っ、な、なに…?」
その肌に、実際に触れるのは初めてだった。
半ば無意識にその白い首筋に指を伸ばす。
これでも兵士なんだよな?
……無防備すぎるだろ。
暖かな体温に触れると、びくりとその肩が震えた。
二本、三本と、柔い肌に触れる指先が増える。
「−−−そいつにこういうところ、触られた?」
知らない指が首をなぞって、髪と耳に軽く触れる。
その手付きが嫌に熱っぽい。
「っ!!?」
囁かれるように近づいた気配を感じて、エマは思わずぱっと身を翻して立ち上がり、何歩か後ずさるようにしながら距離を取った。
グラスを置くタイミングを逃して、まだ半分ほど中身の残ったそれは所在無く体の前で握ったままだ。
知り合いの変化には胸が嫌な音を立てるくらい気付いた。
じ、冗談?
私のこと、からかってる?
こんな冗談面白くないよ。
変な空気。
二人でこのままいない方がいい気がする。
「マ、マルクス、一度中に戻ろうよ。
飲み物全部飲んじゃったんでしょ?」
そう言って彼の横に置かれたグラスに目をやった。
不思議な赤い色をした飲み物はもうなくなっていて、氷だけが残るグラスからは結露した水が滴る。
「ん?……ああ、そうだな」
少し遅れた反応を見せる長身の彼は、それでもいつものような人懐っこい笑顔も見せてくれない。
……?
何だか変な事だけは確かだ。
もしかして。
もしかしてだけど、酔った勢いで手当たり次第口説きたくなっちゃう人なの?
一歩大きく踏み出せば捕まえられるような距離は、長身のマルクスにとってないようなものだった。
彼はじゃり、と足元の小さな丸砂利を踏み込んで立ち上がり、更に離れようとするエマとの距離を詰める。
「っ!」
やだ…っ!
お互いそんな対象じゃないはずだ。
マルクスとほんの少しの間違いも犯したくないし、
そんな一夜の過ちの相手にもなりたくない。
リヴァイ以外の男の人に触られたくもない。
以前から知る友人にそういう対象として見られる事自体が信じられなかった。
エマはその場から逃げ出そうとして咄嗟に背を向けるが、その腕を軽々と背後から掴まれてしまう。
「あ……っ!」
マルクスはその細い腕を掴んだまま、ぐい、と引いてすぐ横のオーナメントの石柱にエマの体を押し付けた。
「…!」
大きく開いた傷跡ひとつない背中。
初めから、見ないようにしていても嫌でも目に入っていた。
見下ろした時から分かってはいた。
その滑らかな背には、有るべきはずの下着の線も無い。
正面から見れば、支えるための下着が無くても、瑞々しく形の良いそれが嫌でも分かってしまう−−−。