△ カトレア 01
ある夏の日。
日中は空も高く晴れて、雨の心配はひとつも無さそうだった。
夏の期間はあまり雨も降らずよく晴れた日が続く。
リヴァイにとっては少し眩しすぎるくらいだった。
湿気が少ない土地柄、夏とは言え朝夕は気温が下がるので、兵士は皆ジャケットを持ち歩いていた。
真上で照っていた太陽が傾きだした頃、リヴァイがいる執務室の扉を誰かが高く叩いた。
ノック音の後、顔を覗かせたのは少し慌てた様子の男性兵士だった。
手には何も持っておらず、大方連絡事項か何かか、とリヴァイは静かにその兵士に目を向ける。
「リヴァイ兵長、こちらにいらっしゃいましたか。あの、お時間が迫ってるそうなので至急ご準備いただけますか」
支度、と聞いてエルヴィンが先日話していた事柄を思い出した。
王都で開かれる何ヶ月かに一度かの趣味の悪い集まり。
社交場との名目で、要は王政や貴族へのご機嫌取りと資金繰りが目的だ。
調査兵団は機関の中でも特異な位置にあるので、貴重な税を使って変革を求め壁外へ出るという集団は、世間や貴族から見れば理解出来ない対象だったりする。
そんな調査兵団の兵士をわざわざ見にくるのが目的の貴族もいるそうだ。言わば、体の良い顔晒しだ。
言わずもがな、リヴァイがそんな場に顔を出すはずもなくいつもはエルヴィンと何名かが上手く立ち回っている。
そういえば今夜だったか。
「ああ…例の晩餐会か何かか。
俺はいつも通り不参加になっているはずだ」
エルヴィンからの説明に今回も二言三言で参加を断っていた。
いつも不参加だったので、こうして兵士がわざわざ呼びに来るのも随分ぶりだ。
ご苦労だったな、と付け加えて手元の書類に目線を戻す。
兵士はそのまま扉を閉めて去っていくと思ったが、まだ戸惑ったようにこちらを伺っていた。
「……なんだ。まだ何かあるのか?」
「あ、いえその。団長が今夜はどうしても都合が悪いので、代わりに必ず兵長を連れていくようにと言われてるんです…」
途端に、リヴァイの眉間が深く寄せられる。
「…そんな話は聞いていないが」
不機嫌さを隠そうともしない上司に、若い男性兵士は一瞬だけ怯んでから、それでも果敢に返事をした。
「団長から聞いてないんですか…!?
で、でも、兵長を連れて行かないと僕も困るんです…必ずリスト通り集めろと言われていて、兵長で最後なんです」
お願いします、と気弱そうに眉を下げて懇願するその言葉に、ふと疑問を抱いた。
「俺で最後だと?他は誰だ」
「あ、はい。えっと」
ガサガサとジャケットのポケットから折り畳んだ紙を取り出して、兵士は焦ったようにそれを読み上げた。
「今夜の夜会は調査兵団から最低四名は参加しろとのことで、男女二人で一組なので二組のペアでの出席が必須だそうです。
ええと、一組目のお名前が、二班の一般男性兵士と六班の女性副班長のものですね。
すでにそちらの両方と、兵長のお相手の方はもうあちらに到着する予定ですので、すぐに兵長にも向かって頂かないと…」
「俺の相手?」
聞きなれない単語の中に一際不快な言葉を聞いて、一層怪訝そうにその兵士を見据えた。
「は、はい。それもエルヴィン団長の指示で。あの、こちらにフルネームのお名前が」
そう言って男性兵士は慌ててこちらへ歩み寄り、参加者をリストにした部分をこちらへ向ける。
エルヴィンの指示。
そう聞いた瞬間からなんだか嫌な予感がしていた。
その名前をしっかりと読み取って、その予感が的中していたのを確認するとリヴァイは盛大に舌打ちをした。
ーーーーーーーーーーー
……なんで、こんなことになっているんだろう。
豪華絢爛と呼ぶに相応しい大広間を抜け出して、エマはバルコニーを抜けた先の庭園で立ち尽くしていた。
色とりどりの花が惜しげなく咲き誇り、その中央には噴水、周りには神話に登場する神々を模した精巧な彫刻が置かれて、神秘的な雰囲気を醸し出している。
が、今のエマにはその見事さを堪能する余裕もなかった。
はぁ、と息を吐いて手頃な高さの白い石造りの垣に腰かける。
俯くと丁寧にカールされた髪が顔に掛かった。
歩きにくい。
なんだかとっても贅沢な濃紺のドレスと、それに合うように与えられた華奢なヒールを見下ろして困ったようにもう一度溜め息を吐いた。
どうしよう。
そもそもの始まりは、雑務中に見知らぬ男性兵士に声を掛けられてからだった。
兵団の為に。
王都で集まりが…、なので急いで向かってください、と繰り返しながら少し焦った様子の彼に強引に腕を引かれて、馬車に乗せられるまで自分なりにかなり抵抗した。
訳が分からないまま、きっと人違いだと何度も断ったけれど、リヴァイとエルヴィンの名前を出されて閉口した。
少し気弱そうな印象の兵士は、来てくれないと僕も困るんです、と泣きそうな顔で懇願してきて、それだけでエマの良心はチクチクと痛み出した。
彼は続けて、私が行かないと兵団全体に多大な迷惑がかかる、なんて言い出したのだ。
特にリヴァイに関しては私がここで承諾しないと彼の肩書にも傷がつく……かもしれない、なんて内容を聞かされては、渋々ながらも馬車の踏み台に足を掛けるしかなかった。
その際に何故かジャケットを預かると言われ、その男性兵士に言われるがまま腕に掛けていたそれを手渡した。
王政もとい権力のある貴族主催の夜会だと聞かされたのはつい先ほど、馬車で連れていかれたサロンの一角でゲスト用だという部屋に通された。
二人の黒いお仕着せを身に着けた女性が間もなく部屋に入ってきて、戸惑ったままのエマを手慣れた様子で促していった。
兵服を全て脱がせ、浴室で手早くながら丁寧に全身を洗い終えてからバスローブ姿のエマの髪をその内の一人がこれまた慣れた手つきで緩く掴んだ。
兵服のジャケットは身につけていなかったので支度を手伝ってくれる二人の女性は私が調査兵団とは分からずに、大勢が所属している駐屯兵団だと思っているようだった。
支度の途中その内の一人が、駐屯兵の誰々が出席していますよ、なんて夜会の様子を教えてくれたけれど、私には誰が誰かもさっぱり判らずじまいだ。
きっと親切で教えてくれたのだろうとは思う。
結局私は曖昧に相槌を打つしかなかったが、特に不審には思われていないようだった。
あの男性兵士はなぜジャケットを持って行ってしまったんだろう。
なんだか今更、自分が調査兵団とは言い出せない雰囲気になってしまっていた。
もう一人の方は浴室の片づけをしたり、両手で抱えるほどの白い紙箱と、いくつかの小さな箱を手際よく室内に運び入れているのが鏡越しに見えた。
何度も栗色の柔らかい髪にその不思議な形をした櫛を通しては、乾かしながら器用に形付けていく。
大きな鏡の前で段々と仕立てられていく自分の様子を、エマはまだ物凄く困りながら言葉なく見つめていた。
ここまで来ればもう何となく分かっていた。
これからその夜会とやらが催されて、自分は何故かそこに出席することになっているのだ。
リヴァイとエルヴィンの名前を出されたところから考えると、自分は言い包められただけと考えるのが自然かも知れない。
もし二人が来るようならきっと事前に知らせてくれていたはずだ、と思った。
もしかしなくとも、二人は来ないのかもしれない。
リヴァイに至ってはこんな場に出席するわけがない。
うう……帰りたい。
何を言われてもはっきり断れればよかった。
こんなところでこんなことをしている暇があれば、リヴァイに会いに行きたいのに。
顔から火が出るほど恥ずかしくて、だけど溶けそうなほどの甘い夜をリヴァイと過ごしてから、早くも二か月程が経っていた。
甘い余韻に浸る暇もなく、ゆっくりと話をすることも出来ないでいる。
最近はリヴァイもエルヴィンも輪を掛けて忙しいようだ。
つい何日か前に忙しい合間を縫って、しばらくは忙しい、とリヴァイが私に伝えに来た。
寂しい気持ちを押し殺して、笑顔で返事をした。
いつものように強く抱きしめてくれた腕がもう恋しい。
流れるように端麗に出来上がった髪と、少しだけ施された化粧を見てほんの少しだけ嬉しくなったけれど、それを一番好きな人に見せられるわけもないとまた浮き上った気持ちが沈み込む。
用意が出来たら大広間までお越しください、とこんな私にも綺麗に頭を下げて二人の女性が部屋を出て行くと、静かな部屋に残されたのは濃紺のドレスと小さなイヤリングと揃いのアクセサリー類、それから履いたら折れてしまいそうな程華奢なストラップヒールだった。
逃げ出そうと部屋を見渡しても当たり前なことに兵服も見当たらず、諦めてドレスを手に取ったはいいものの。
そのデザインに一瞬目を疑った。
しばらく悩んだ挙句覚悟を決めてそれを身に着け、慣れない手つきでヒールのアンクルストラップを留める。
なんとか馬車まで辿り着ければそのまま帰れるかもしれない。
長居をするつもりはないと、アクセサリー類の入った箱は一目見た後、静かに閉じた。
ひっそりとした廊下を抜けて、賑やかな大広間を見つけるのは容易いことだった。
エントランスの方から次々に人が大広間に向かって流れていく。
エントランスの裏手に回って適当な馬車を捕まえようと思ってから、お金も何も持ち合わせていないことに気付く。
しまった。
無料で乗せてくれる馬車なんてないよね…?
調査兵団用の馬車なんてないんだろうかと考えたときに、ふと見知った顔が行き交う人混みの中に見えた。
男女二人組。
正装していつもと印象は違う二人だけど。
あの人たち調査兵団内で見たことがある。
たしか、二班と六班所属の人たちじゃなかったかな。
知っている人がいて助かったとその場へ向かおうとするけど、人垣から零れた雰囲気に足が止まった。
上品な扇子で口元を隠して、ひそひそと面白そうに言葉を交わす優雅な仕草の女性たち。
「あそこにいる二人?壁の外に出るっていう調査兵団ってあの人たちなの?」
「私達もあれを見に来たのよ、後でもう少し近くに行ってみましょうよ」
「二人だけなんてつまらないじゃない、他にはいないの?」
「わざわざ外に死にに行くなんて、あの人たちやっぱりどこかおかしいのね…」
……っ。
調査兵団って、やっぱり変わって見られるんだろうか。
遠巻きから物珍しそうにその二人の様子を見ている人たちは他にもいるようだった。
皆死にたいわけなんかじゃない。
皆がどんな気持ちで外に向かうかも知らないで。
人類の為に。
こんな風に自分たちを異質なものとして見る人たちごと守るために戦っているのに。
やっぱり、分かってもらえていないんだ。
悔しさと悲しさでぎゅう、と痛いくらい自分の手を握りしめて、意を決して二人に歩み寄ろうとしたとき。
不意に肩を無遠慮に後ろから掴まれた。
「エマ?」
−−−!?