「……これで、よし…っと。
それにしてもツクヨミ、本当に良かったのか?
婚姻届の証人が俺で。しかもこれ、名さんの欄じゃないか」
そう言って上司は捺印部分を乾かすために用紙を軽く振る。
言葉だけで判断すれば謙遜しているように思えるが、こうして実際顔を付き合わせていると
頼りにされたことが嬉しいらしく、少々表情がにやついているのが見て取れた。
「いえ。彼女からのお願いでして。自分の証人欄には貴方の署名が欲しいと。
すみませんが、お願いします」
「いや…そう言われると、なんだか照れくさいな。
それにしても。とうとうお前も結婚か…あっという間だったな」
朱肉が乾いたようで、”ほい”と用紙を俺に差し出してくる。
一礼しそれを受け取って丁寧にしまうと、感慨深そうに上司は呟いた。
しかし実際そのとおりだ。
あの事件があって数週間。後処理の雑務もようやく終わりが見えてきて、籍を入れる日程をようやく決めた。
特にその日程に意味はなく、それで構わないのかと確認すると。
”これからこの日に意味を持たせてあげればそれでいい”と。名は少し恥ずかしそうに呟いた。
婚姻届の証人欄には自身の両親や親しい人に書いてもらうことが多いと聞いたが、
そのどちらも、今の彼女にはいなかった。
そこで仕事を斡旋していただいたり、保護された時世話になった俺の上司に白羽の矢が立ったということらしい。
仕事の合間に時間を見つけ、事情を説明し依頼すると思っていたよりすんなり了承してくれた。
入籍することへの軽口や、これからの心構えをご教授いただき。
その日の業務は問題なく終えることが出来た。
そして迎えた入籍予定日、名はひどく落ち着かない様子だった。
普段あまりしないような些細なミスが多く、朝からどたばたしていたのだ。
紅茶に入れる砂糖の量が極端に多かったり、トーストを焦がしてしまったり、色々だ。
その度、申し訳なさそうに項垂れるのだが、その姿はとても愛らしく思えてしょうがなかった。
「踏陰くん、ご…ごめんなさ……」
「いや、気にしなくていい。大丈夫だ」
酷く焦げた部分だけを取り除き、食卓に並べる。
名は尚も気にしているようで、眉尻は下がったままだ。
少しでも彼女の気持ちが上向きになればと思い、ぽんぽんと軽く頭を撫でる。
彼女はびくりと反応して俺を見上げた。
「……怒らないの?」
「何故?…失敗することもあるだろう。人間なんだからな」
「踏陰くん……
………あ、 ありがと……」
消えてしまいそうな程か細い声で名はそう呟いた。
正直なところ、なぜ彼女がここまで極度の緊張状態にあるのか理解できてはいないのだが。
…問題があれば自分から話してくれるだろう。そう考え、炭の味がする食パンにかじりついた。
結局。名の心ここにあらず状態はその後も続いた。
彼女から話してくれるのを待つつもりではいたが。彼女はそういう習慣が他人よりも身についていない。
今までの生い立ち故なのだが…情けないことに「もう大丈夫だろう」と勝手に決めつけていたようだ。
俺もまだまだだな、と猛省し。名には自分の支度だけに集中してもらうことに決めた。
流石に掃除機のダストパックをひっくり返されたこの状況下だ。これ以上の被害は出したくない。
眉を下げ、自分が片付けると言ってきかなかったが、なんとか頼み込んで自室に引っ込んでもらうことに成功した。
そういうところも含めて俺はお前の事が好きなんだから気にするなと、ぼそぼそと告げるとさっきよりも真っ赤になってうつむいてしまったのだ。
俺自身の支度はすでにできている。手早く散らかった塵を片付け、名に声をかけると見覚えのあるワンピース姿で顔を見せた。
「それは……」
「えへへ、初デートの時の、だよ」
その場でくるりと一回転。ふわりとスカートの裾が揺れる。
彼女が着ていたのは、水族館へはじめて行ったときに来ていたベージュのワンピースだった。
”わたしにとって一番特別なのはこの服だから”と、うつむきながら語る名が心から愛しく思えて、思わず両腕で抱きしめた。
婚姻届の提出は思っていたよりもあっさり終わってしまった。
届と、必要書類を併せて窓口に出すとものの数分で完了したと職員に告げられたのだ。
思わず2人で顔を合わせて笑ってしまった。
特に名はかなり緊張していたようだから、肩透かし感が俺以上だったろう。
受付完了の用紙を握りながら役所を後にすると、名が腕にしがみついてきた。
どうした?と尋ねると、顔を真っ赤にしながら、俺にだけ聞こえる声で囁く。
「ずっと一緒にいてね、 わたしの、だんなさま」
……そう呼ばれる事など、どうってことないと考えていたのだが。
最愛の女性に、赤面されながら言われるとこんなにも心臓がうるさくなるものらしい。
人目があることは理解していたが、彼女を抱きしめずにはいられなかった。
「もちろんだ。 お前は、俺の妻だからな」
今度は名の心臓が早鐘を打っているだろう。