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砂の中の銀河

目が覚めると砂漠が目の前に広がっていた。
固く握り締めていた右手の中にはしわくちゃになった楽譜があって、筋肉がそのまま固まってしまっていたようだった。
ゆっくりと右手を解くとはらりと数枚の楽譜が地面に落ちる。
風に吹き飛ばされそうになったその楽譜をなぜだか必死になってかき集めた。
これは私にとって大切なもののようにも感じたし、これを失えば私になにも残らないような気もしたからだ。

どうして砂漠にいるのだろう。
家族はどこへ行ったのだろう。
痛みもしない頭に手を当てて考えたが、なにも思い出せなかった。
そうしてようやく気がついた。
なにも、思い出せないことに。
どうしてここにいるのかわからないが、私がどこから来たのかもわからない。
果ては、私が一体何者であるのかすら、思い出せなかった。
途端に恐ろしくなり、ぎゅう、と目を瞑った。
どうして思い出せないのだろう。
なにがあったのかわからない。
自分が誰なのか、これは夢なのか現実なのか。
まぶたの裏の暗闇をしばらく見つめていたが、こうしてうずくまっていてもなにも進展しないことだけはわかった。
目を開けてみると変わらず砂は辺りに渦巻いていたが、私は楽譜を胸の前で抱きかかえ、歩くことにした。

鏡がないから自分の容姿がどんなものかわからない。
記憶がないから自分が何歳かもわからない。
手のひらで顔に触れてみたところでは、私は大した容姿をしているわけではないようだった。
鼻は低いし、まぶたはきっと一重だ。
ただそこまでたるんだ肌ではなかったから、おそらく20代、良くて10代ではないかと楽観的に考えることにした。
記憶がないといっても、世界の常識まで忘れてしまったわけではないようで安心した。
鼻が高くて、肌が白くて、唇が明るい色で、二重まぶたで、目が大きければ、美人だという常識が失われていないなら。
そうして安心したところで、その常識を活用できないこんな砂漠にひとりぼっちでいるならどちらでも同じことだ。
私はどんな人間だったのだろう。
唐突に思いついた議題はしかし、もっと早く辿り着くべきものだったのかもしれない。
思い出せないのならいっそ自分の理想を勝手に思い浮かべてしまっても良いのではないか。
当てもなく歩いているだけでは私はきっと衰弱し、乾ききって死んでしまうだろう。
それなら理想を持ち続けて死んだ方がましだ。
楽譜を持っているということはなにか音楽をやっていたに違いない。
もしかしたらこの楽譜は私が書いたものなのかも。
今一度抱えていた紙束を目の前にかざしてみる。
陽光を浴びて反射する気持ちのいいほど白いその紙には、さっぱり解読できないおたまじゃくしたちが泳いでいた。
楽譜が読めない。
これは記憶喪失によるものなのか、それとも元々読めないのか、それすらわからなかった。
ああ、不安に呑まれそうになるな。
なんのために理想を語ることにしたんだ。
私の書いたものではないなと再び楽譜を抱え直して、私の今までの人生について考えることにした。
私はおそらくとてもお金持ちの家に生まれて、両親に愛されて育った。
時々ケンカはしても、次の日には仲直りするような。
犬を飼っていて、私に一番懐いている。
2人の親友といつも3人で行動していた。
勉強は中の上の成績で、塾に通わなくても自分で勉強できる子だ。
音楽をやっていたのだと思うが、きっとピアノでもなんでもさらりとこなすような器用な人間だっただろう。
だから友人にも恵まれていて、私はみんなに好かれていて。
一通り考えてから、ため息をついた。
あれ、なんだろうこの感じ。
なんで今、ため息なんか。

ずっと地面を見ながら歩いていた。
変わらない砂地は退屈だったが、なぜだか安心感があった。
空を見上げるのもいいが、雲の形は変わっていき、風に流されて通り過ぎて行く。
私はなにも覚えていなくて、足は進んでいても気持ちはわけもわからないまま停滞しているのに、雲はすいすいと空を泳いで羨ましいわね、と誰も見ていないからといって思い切り眉を寄せた。
地面から顔を上げると、遠くに洞窟のようなものが見える。
ようやくセーブポイントだ。
どこにそんな力があったのだろうと自分でも驚くような早足で、私は洞窟を目指して小走りした。
砂に足をとられて転びそうになったが、なんとか堪える。
手元が疎かになり、楽譜が一枚風に飛ばされた。
私は脇目も振らずに洞窟へ急いだ。
何枚もあるんだから、一枚くらい。

たどり着いた洞窟は、思ったよりも広くて寒い。

「だれかいないの?」

久しぶりに出した声は掠れていて、自分の声じゃないみたいだった。
自分の声すら覚えていなかったから、誰の声が口から飛び出しても同じことを思っただろうけど。

「ここにいるよ。」

向こうの方から声が帰ってきた。
暗くてよく見えない。

「だれ?」

壁に手を当てながら歩いていると、なにかに躓いた。

「やあ。こんにちは。」

足元を見るとあぐらをかいて体にぐるりと布を巻いた男性が、片腕をあげていた。
人の良さそうな笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「君はだれ?」

私は素直に答えた。

「それがわからないのよ。」

「覚えていないの?」

覚えていない。
ようやく会えた人間に私は安心して、今までのことを自分の中で整理をつけるためにもつらつらと語った。
といっても、覚えていない、ということがすべてなのだから語るようなこともなくすぐに口を閉じることになった。
自分の声、もう少し聞いていたかったかもなあ。

「私なにも覚えていなくて。どうしてここにいるのかも、自分のことも。」

私がそう言うと、おじさんはふうん、と一度頷いて聞いた。

「名前は?名前も忘れてしまった?」

名前は。

「スナ子。」

なぜだかすんなりと口からこぼれた名前は、人の名前ではないみたいなものだったけど、どうしてだろう、私はこの名前だった。
おじさんは嬉しそうに笑うと「スナ子」と噛みしめるように私の名前を呼んだ。

「そうか。君はスナ子というんだね。名前だけは覚えているなんて不思議だな。」

「おじさんは、私のこと知ってるの?」

自分の名前がすんなりと出たことに自分で驚いたが、それよりも期待の方が大きかった。
今まで空を切るばかりだった手のひらに、ようやく霧くらいは触れた気がしたから。

「いや、君のことは初めて見たな。」

しかしは霧は結局霧のままで、私の指の隙間からするりと空中へ溶け込んでしまった。

「そう…。私のことを思い出す手がかりになると思ったのだけど。」

私は俯いて、おじさんと同じ目線になるためしゃがみこんだ。

「君は…名前以外の全てを忘れてしまったということ?」

おじさんは俯く私の顔を覗き込んで、穏やかな口調でそう聞いた。
私を哀れんでいるようなその声に無性にいらついて、顔を下に向けたまま眉を寄せる。

「知らない。おじさんこそ、なんでこんなところにいるの。こんなところでなにをしてるの。」

私をかわいそうなやつみたいに思わないでよ。
会ったばかりのくせに、心に踏み込もうとしないで。

「おれは、ここで人を待っているんだ。ずっとね。」

私の気持ちなどそれはもうおかまいなしに、おじさんはけろりと答えた。

「ずっとって?どれくらい?」

なんでもいいからこの不安や焦燥感から逃げ出したくて、興味のないその話に乗ることにした。

「そうだな。数ヶ月、このままだ。そろそろ食料なんかも尽きてきて、一応焦っているところだよ。」

さっぱり焦っている様子など見せていないくせにわざとらしく肩をすくめるおじさんに余計いらいらが増した。
その話が本当なら、大変な事態だというのにまるでそんな素振りを見せないこの男が、不安で潰れそうな私を遥か高みから馬鹿にしているみたいで腹が立ったのだ。

「どうしてそんなに余裕そうなのよ。食べるものがないならもっと焦ってもいいじゃない。」

「焦っても仕方のないときもあるということさ。それよりもスナ子は、よくここまで辿り着けたね。」

今度は私のことを話せということだろうか。
話そうにもなにも覚えていないのだから、言葉は出ない。
思い出そうとしても、手がかりがない。
できることがなくて、もうすでに途方に暮れていたが再び現実を突きつけられた。
無力だ。
私の頭がもう少しくらい良ければなにか変わっていただろうか。
忘れてしまったからなにもできないのではなくて、元々なんの力もない人間だったのではないか。
一度そう思うとその疑惑が確信に変わる。
そこから逃れられなくなる。

「私きっと、なんにもできない人間だったと思うの。ここに来るまで理想の自分をたくさん思い浮かべてみたけど、どれもしっくりこなかった。そんな順風満帆な人生だったはずないって思って。思い出せないからってそんなに都合よく考えられない。楽譜があるからきっとなにか音楽をやっていたのだと思うけど、きっとそれも失敗ばかりで、そこまで好きだったわけじゃないと思うし。もし私が本当に音楽を大好きだったなら、覚えていなくても感覚で楽譜が読めたり、音楽のことだけは忘れなかったりするはずなのに。それなのに、私はなにもかも覚えていないの。今までの私の人生、私の本当に大切だったものなんて何一つなかったんじゃないかって、」

「スナ子。落ち着いて。」

泣きそうになりながらまくし立てる私を、おじさんは遮った。
遮ってくれた。
このまましゃべり続けていたらみっともなく泣いていたと思う。

「覚えていないからって大切じゃなかったとは限らないんじゃない?スナ子は覚えていないのに、ちゃんと楽譜とここまで来ただろ。」

私はいつのまにかところどころ汚れて、ぐしゃぐしゃで、破けてしまった楽譜を持ち上げてみた。
見つけた時はあんなに真っ白だったのに。

「でもここに来るまで何枚か風に飛ばされてしまったの。大切なものなら必死になってかき集めるはずよ。」

今になって風に飛ばされたあの白いままの楽譜を見捨ててしまったことを後悔した。
いつも終わってから後悔ばかりしている気がする。
夢中のときはなにかを取り落としても振り向きもしなかったのに、辿り着くと思い出して自分を責める。
こんな自分が嫌いで、もっとうまくできたはずなのにって、いつもいつも。

「スナ子。君は自分の欠点を見つけるのがずいぶん上手だね。でも自分の欠点がわかっている人間は、そうでない人間よりもずっと賢いよ。あとはスナ子の良いところを見つけていこう。」

おじさんは小さい子どもに話しかけるように笑って言った。
その笑顔は捻くれた私でもわかる。
私を哀れんでいる顔でも、かわいそうなやつだと思ってる声でもなかった。
きっと最初からそうだったのに。

「見つけるって言ったって、なにも覚えていないんだってば。」

「覚えていなくたって、悪いところは思い出せたじゃない。なら良いところもすぐ思い出せるよ。」

私の良いところ。
そんなものあるのかな。
目が覚めてから今までの短い間に、私はなにをしただろう。

「さあ、もう見つかった。スナ子は人の話を聞いて、飲み込んで、自分の中で整理をつけるのが上手だよ。頭ごなしに否定しないのは、立派な取り柄だ。」

「そんなの誰だってやれって言われればできることでしょう。」

取り柄なんて言えるものではない。

「すぐに調子に乗らないところも、長所だよ。消極的という短所にもなるけど。」

言い方次第だ、そんなもの。
それならおじさんは、私がどんなに八つ当たりしようとしても軽く躱して宥めすかすのが上手だし、話を聞き出すのも上手で、聞くのも上手。
おまけに人の良いところをむりやりひねり出すのも上手だ。
それから、自分の話題をうまく避けて話すのも。

「おじさんはだれなの?私のことをずっと前から知ってるみたいに受け入れてくれる。こんなの普通おかしいわ。」

「言っただろ。君のことは、初めて見るって。」

返ってきてたのは最初と同じものだった。
でもおじさんは私みたいに混乱して取り乱した人間を落ち着かせるのに慣れているみたいに見えた。

「私のことは、ってことは、私以外の人なら見たことある、の?」

「そうだね。君以外にもここに来る人間は数人いた。みんな最初は怯えていて、取り乱して、どうすればいいと訴えるけど。やがて洞窟の向こうへ抜けて行くんだ。」

洞窟の向こうへ。
向こうへ行けば人がいるということ。

「いろんな人がここらを彷徨っているのね。そしてここへたどり着く。洞窟の向こうはなにがあるの?」

期待が高まってきた。
向こうへ行けば、人がいるはず。
手に触れたのは霧じゃなかった。
確かな水滴だ。

「洞窟の向こうは人がたくさんいる。今まで彷徨ってきた人たちの安息の地だよ。ふかふかのベッドと、毛布がある。食料と水がある。向こうは安全だ。」

やった。
やった!
それならこんなところでおしゃべりをしている場合じゃない。
私が誰だろうともうどうでもよくなっていた。
これから誰かになればいい。
早くこんなところは抜けて、みんなのいる場所へ行こう。

「そう。なら私は向こうへ行くわ。ずっと砂漠を彷徨うのはもういや。」

私はそう言いながらすでに立ち上がっていた。
先は暗くてよく見えないけど、進めば抜けることはわかったのだから、歩けばいい。

「そうか。向こうへ行くんだね。」

おじさんは特になんの感慨もなさそうに言うと、静かに俯いた。
私は別れの挨拶もそこそこに、楽譜をぐしゃりと手にとって歩き出した。

「スナ子。」

俯いたまま私を呼んだおじさんの声に振り返ると、ゆっくりと顔を上げたおじさんは微笑みをたたえているのに眉を寄せていた。

「そっちは暗いから、迷うかもしれない。でも何回転んだっていいよ。君についた傷を忘れないで。どんな傷でも君は心臓を動かして、悩んで迷って、生きているからね。」

どうしてそんなことを言うの。
そんな、聞いたことのあることを。

「おじさん、」

「それからできたら、こいつも一緒に連れて行ってあげて。」

そう言っておじさんは、自身を包んでいた埃っぽい布の懐の部分から、一枚の真っ白な紙切れを出した。
黙って手に取り広げてみると、それは私の持っている汚れてしまった楽譜とは違ってすっきりと綺麗な、真新しい楽譜だった。
見た目は違ってしまったけど、私のと続いている楽譜だった。

「どうして。」

「元々は君のものだったから。できればひとまとめにしておきたくてね。」

から、と笑うおじさんに怒りをおぼえた。

「違う。そんなことじゃなくて、どうして初めて会ったおじさんが私の楽譜を持っているの。」

それも、私が目を覚ました時に見たのと同じ、真っ白な楽譜を。

「私のことは初めて見たって言ったじゃない。」

あなたはだれなの。
私にたくさん優しくしてくれて、話を聞いてくれて、良いところを見つけてくれて、私の一部分を大切に持っていてくれたあなたは、いったいだれ。

「おれはここで人を待っていたんだ。君の前の君をね。スナ子は必ずここに戻ってくると言って楽譜を探しに出て行った。食料を置いて。でも戻ってきたのはなにもかもを忘れてしまった別人だった。君はこの砂漠を彷徨うのがいやになって、きっとすべてを投げ出したくなったんだろうね。おれのこともすべて忘れて、新しい自分になりたかったんだ。それなのにおれは、スナ子の記憶をどうにか引きずり出せないか、君のことを引き止めた。このままなにも言わずに向こうへ行かせてあげられたら、どんなによかったか。」

おれは最低なやつだ。

おじさんはそう言って今度は悲しそうに笑った。
私は動けなくなって、じわりと湧いた手汗が楽譜を濡らす感覚だけを鮮明に感じた。
おじさんのくれた楽譜を裏返すと、そこにはずっとずっと思い出せなかったこの楽譜の題名が書いてあった。

「パッヘルベルのカノン」

ああそうだ。
これ、私の一番好きだった曲。
ピアノを弾くことがなにより好きだった。
私にはピアノの才能があると信じきっていた。
でも実際はそんなことなくて、実力は普通も普通。
私よりもずっと上手にピアノを弾ける子はたくさんいた。
それでも、私はピアノが大好きだった。
どうして忘れてしまっていたんだろう。
お母さんは私にピアノを強制することは一度もなかった。
好きなように弾けばいいし、やめたくなったらやめればいいと。
ピアノばかり弾いていたから勉強は大して好きでもなくて、クラスでは目立たない存在だった。
思い出した。
私の人生は、平凡だ。
劇的なことなどなにも起こらない。
でもこの先もピアノを続けるかどうかの決断はできなくて、私はピアノが嫌いになってしまった。
最初は、こんなに悩むほど私はピアノが好きだろうか?と思い始めた。
それから、こんなに私の頭を占領して、未来が約束されたわけでもないのに鬱陶しいものだと思った。
最後には、すっかり嫌いになっていた。
でもうそだ。
嫌いなはずないのに。
こんなに好きなのに。
私を引き止めた時の言葉。
知っているはずだ。
聞いたことがある。
それに、私の名前を呼ぶ時の声。
私の名前を噛みしめるように呼ぶこの声は、知っているものだった。

でも、どんなに思い出そうとしても私の人生におじさんはいなかった。
どこにもいない。
知っているはずなのに。

「おじさん。おじさんはだれなの?私、どうしても思い出せない。おじさんのこと知ってるのに。今会ったよりも前におじさんのこと。」

あなたの名前すら知らない。

「おれは、名前を忘れてしまったんだ。でも、おれはいつでもスナ子のそばにいたよ。スナ子がピアノを弾いているときも、弾いていないときも。楽しいときも、つらいときもね。いつも一緒にいさせてくれたよ。」

ああ、あなたは。
あなたは、わたしね。
私たちはいつも一緒にいた。
それなのに、私はあなたを切り捨ててしまった。
大事な楽譜の表紙と一緒に、忘れ去ろうと。

「おじさん。おじさん。ごめんなさい。私、忘れちゃいけなかったのに。おじさんはずっとここで私のことを待っていてくれたのに。おじさんはここでずっと、私の嫌なことを全部引き受けてくれていたのね。」

名前すら忘れて。
私はおじさんに近づいて、おじさんを覆っていた布をゆっくりと持ち上げた。
足元には血が流れ、おじさんの身体は傷だらけだった。
顔だけは平静を保って私を安心させてくれていたんだ。
私の弱い部分を、全部押し付けていた。
私が私の弱い部分だったのに。
おじさんは私の、強い部分だ。

「私たち、一緒にいなくちゃいけないわ。」

あなたの名前、忘れてしまったのなら私がつけてあげる。
あなたが私にスナ子という名前をくれたように。
私が私の名前を忘れなかったのは、あなたのおかげだったんだわ。

「スナオ。さあ一緒に行くわよ。」

「スナ子。むりだよ。この洞窟はとてもじゃないがおれは歩けない。ひどい岩場になっているんだ。」

「誰が洞窟の向こうへ行くと言ったの。私たちが行くのは砂漠よ。」

楽譜を見つけ出さないと。
大丈夫。
どれだけ迷っても一緒なら行ける。
そしてまた、ここへ帰って来られる。
もう二度とあなたのことを忘れない。

私がスナオの肩を首に回して立とうとすると、スナオはそのまま私をぎゅう、と抱きしめた。

「スナオ、」

「スナ子。愛してるよ。自分に正直に生きることを忘れないで。」

スナオは私の肩を抱く腕にもう一度力を込めた。

忘れないよ。
絶対忘れない。
あなたは私の人生にたしかに生きてた。
私の人生の中にいた。

軽くなった肩から力を抜いて、誰もいないのにこっそりと目元を拭う。
汚くても破けていても、欠けていても大切な楽譜を抱え直し、私は一人で歩き出した。


引用:ヨハン・パッヘルベル「パッヘルベルのカノン」
別名「涙のカノン」

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