( 2/5)
まるで自分のものではないかのように、体が重くて動かせない。喉はからからに乾いている。焼けるような熱さと、気が遠くなる程の鋭い痛み。
ぼんやりとしたままの視界、薄い膜で覆われているかのような耳鳴り。
聞こえてくるのは、息を吸って吐く、自分自身が奏でる音だけ。
その独りぼっちの世界で、誰かが自分の名前を呼んだような気がして、シャオは目を細める。
まぶしい。すごく。目が眩む。
目が痛い。
ピカッと辺りが光ったかと思えば、轟音と共に激しい衝撃と熱波に襲われた、あの瞬間に目を火傷したのかもしれない。
ごしごしと目を擦り、シャオは眉間に皺を寄せる。両の眼から絶え間なく溢れ出ていた涙はいつしか止まっていた。どうやら涙は底を尽きたらしい。身体中が渇きを訴えている。
徐に目を擦っていた左手に冷たくて固い感触があり、シャオは思い出したように左手を開いて、薬指にはめられたリングを凝視する。
「……兵長……」
この指輪をはめてくれた人の顔を思い浮かべると、シャオの渇いた喉からは掠れた声が漏れる。今にも消えようとしている蝋燭の火のように、微かな声でシャオはリヴァイを呼んだ。
この世界で唯一、
私がこの身を捧げた人。
そして初めて恋をした人。
「兵長……!」
誰よりも強くて誰よりも優しい、そして私だけを愛してくれる人。
リヴァイ兵長、と心の中で名を叫べば、ハンジの自室で彼と初めて言葉を交わした日から奪還作戦の夜までの出来事が、シャオの脳裏を駆け巡る。
20歳の誕生日を祝ってくれた。
特別作戦班に指名され、古城での一ヶ月間を共に過ごした。
壁外調査での辛い別れを共に乗り越えた。
ベッドの中でプロポーズをされた。
残酷な現実に目を覆いたくなるも彼を信じ、その背中を追い続けた。
そして優しく抱き締めてくれた。
皆の前で永遠の愛を誓った。
これが最後の会話かも知れないと涙ぐむ私に
後でな、と言って笑ってくれた。
「……シャオ」
記憶の中の自分を呼ぶ声が、やけにリアルに聞こえたので、シャオは2・3度瞬きをする。
静かだがよく通る彼の声。耳元で囁かれるとじんわりと心に沁み入る大好きな声が、自分の名を音にして紡ぐ度、シャオは何度でも恋に落ちた。
「……シャオ!」
くらくらする程の熱を含むその声と共に、シャオの身体は体温に包まれる。
独りぼっちの世界で突然誰かの気配を感じ、シャオは目を見開く。視界を掠めた黒髪と、力強く自分を抱き締める腕。血と土がこびりついたシャオの顔に、構うことなく頬擦りをする、その人の顔も血で汚れていた。
「よく……、生きてた……!!」
涙に震える声で心からそう言ってくれた人の顔を見上げて、乾いていた筈のシャオの瞳がまた潤む。
再会を渇望していたリヴァイの姿が今、目の前にあった。
幻ではない。
幻だったら、彼の頬が、腕が、体が、
こんなに温かいわけがない。
「……あっ、……!!」
泣き顔で此方に手を伸ばす彼女の姿を、リヴァイは慈しむようにじっと見下ろす。綺麗な髪は所々焦げてしまい、長さはバラバラだ。顔は血と土と煤で汚れている。兵服はボロボロで、剥き出しの皮膚には火傷を負っていた。そしてハンジの報告通り、右足の膝から下がない。
それでもシャオを美しいと思う。
世界一綺麗な女性だと思う。
自分には勿体ない程の女だと思う。
差し伸べられた手を握り、額と額を合わせてリヴァイは瞳を覗き込む。至近距離で見つめ合えば、リヴァイの目からも雫が零れ落ちた。
「……私、のこと、スヴェン、さんが……」
「……あぁ」
「スヴェンさんが、護って、くれて、私……っ!」
「…あぁ。スヴェンに感謝する。一生な」
「うぅー……!!」
抱き着いてきたシャオの頭を撫で、リヴァイは久しぶりに流した涙を拭うことなく、空を見上げる。
多くの命の灯火が消えた日なのに広がる空はとても澄み切っていて、夢と現実の境界を曖昧にした。
(……お前に任せたから、コイツは今生きてる。
スヴェン、ありがとう)
遠い空に向かって、リヴァイは心の中で礼を言う。
見上げた先には誰もいないことぐらい解っている。
ただスヴェンの魂はもう地上には居ないだろうと思っただけだ。あの飄々とした男は、この世界に心残りなどないだろうから。
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