傷痕


気づけば足首の傷も綺麗に元通りとなっていた。私がこの世界に迷い混んでから一ヶ月がたとうとしている。今日は殿下がなかなか来なくて暇をもて余していた私はソファーに寝そべりながら片足を上げて傷あとを確認していたところ、はしたないと軽く甲を叩かれた。

「私が現れたとき、本当に何も兆候はなかったの?」
「これまた唐突ですね、何度も話したと思いますが、一切なにもなかったです」

急な質問にきっぱりと答えたエラムに対し、私はガックリと肩を落とした。やっぱりそうだよね、これは初めに何回も聞いたし、揺るぎない事実のようだ。

「そっか。あー、そうだよね……」
「なんですか、言いたいことがあるならはっきりと仰ってください」

さっきから歯切れの悪い私をエラムは微妙な顔で訝しむ。彼ははっきりと物を言うし、はっきりとした答えを求める。これは良いところでもあり、悪いところでもあると思う。先日私が宴会で起こした大失態を聞いたとき、今度こそ本気で死のうかと思った。

「これを話したらエラムは泣いちゃうだろうから、言わない」
「なっ、何ですかそれ! 子供扱いしないでください!」
「えー、どうかなあ」
「泣きませんよ!」
「私は絶対泣いちゃうと思うなあ」
「シーラ様!」

どうせ正直に話すまで、彼は許してくれないだろう。それでも、少しの間悪あがきをと、彼を子供扱いしてからかう。

「……もし、私が元の世界に戻るなら、一瞬だろうなって。突然この世界に現れたみたいに、音もなく、突然消えるの」

飲んでいた紅茶のカップが受け皿とぶつかり合い、ことりと音を立てた。水面にはぼんやりと私の姿が浮かび、ゆらゆらと揺れている。
うつむいた彼が小さな声で尋ねる。

「シーラ様は、元の世界に帰りたいと思ってるんですか」
「ええ、もちろん」

そうはっきりと答えると、彼は静かに拳を握った。うつむいたままでいるので表情は見えない。そうして独り言のように呟いた言葉は微かに震えていた。

「私は……、シーラ様がずっとこの世界に居てくれたならいいのにと思います」
「私の意志ではどうにもならないわ」
「それでも……それでも私はシーラ様の側で、色々な話を聞きたいです」
「……うん」
「私にとってナルサス様は命より大切な主です。かつてはナルサス様にお仕えすることが私の全てでした。しかし殿下と出会い、沢山の人に出会い、世界の広さを知りました。シーラ様もその一人です。私はもっと、貴女の、貴女と、貴女を………………」
「……そう、ありがとう。これからも面白い話を用意しないとね」

「本当に泣かなかったじゃない」と笑いながら言うと、タイミング良くノックの音が聞こえたので立ち上がった。
殿下と共に現れたゲストはダリューンで、今日はオリンピックの話をした。双方とも興味深そうにしていたが、二人は話の最中も元気のない様子のエラムをチラチラと気にしていた。



***



長かった会議のあとようやく纏まった時間ができ、殿下共にシーラとエラム待つ部屋を訪れた。噂の座談会、初参加である。彼女の話は面白く、分かりにくい部分は丁重に噛み砕いて説明してくれたし、あのナルサスがべた褒めする理由もわかった。ただ気になったのは、ずっとエラムが暗い顔をしていたことである。何かあったのだろうか。彼の珍しい表情に後ろ髪を引かれつつ、ここは殿下にお任せして俺はシーラを部屋まで送り届けている途中だった。
他愛もないことや座談会の感想を話しながら歩いていた俺たちだったが、ふとシーラがバルコニーの近くで立ち止まり「星を見に行きましょう。綺麗ですよ」と腕を引いた。

シーラに誘われ成り行きのまま夜空を見上げると、あまりの美しさに息を飲んだ。頭上には数えきれないほどの星々が溢れんばかりに輝いている。星空なんぞ方角を確認するもの程度の認識だったが、これは認識を改める必要がありそうだ。

「……ダリューン卿は今までに星を眺めて美しいと思ったことがありますか?」
「あ、いや……」

彼女の問いに、まさか頭の中を見透かされたのかとひどく狼狽しながら口ごもる。

「私の元いた世界では、人々は昼も夜も忙しく動き回り、街の明るさは星の光を掻き消すほどです。でも、そんなこと誰一人気にしていませんでした。もちろん私も」

星を見上げながら彼女は話し続ける。

「この世界にやって来たとき、一先ず命は保証されたのにも関わらず、不安でたまりませんでした。昼間は無理に笑顔でごまかして、夜を迎える度に『早く帰りたい』と布団の中で泣いていたのです」

そんなことを考えていたのかと俺は無言のまま驚く。俺がシーラと話すようになったのはごく最近だが、初日から関わってきていた仲間にすら彼女が悩んでいたことも、毎晩泣いていたことも、何一つ聞いたことはなかった。むしろ、聞いていたのはいいことばかりだ。彼女の悲痛な声は誰にも気付かれずに、いや、誰にも気付かれないように、一人で笑顔に隠して耐えていたのか。

「しかし、ある夜ふと気づきました。この世界の星空は故郷と同じだと」

当たり前だ。突然知らない世界に来ていたのだ。それもたったの一人きりで。怖くないはずがない。不安にならないはずがない。俺はこれまでそんな辛い気持ちをおくびにも出さずに振る舞ってきた彼女の背中がどうしようもなくいとおしく、深く抱き締めたくなった。というか、考えるよりも先に言葉が出ていた。

「シーラ、抱き締めていいか!!」
「………………これはまた、直球ですね」

星を眺めるのを止めて振り向いた彼女の笑顔は、暗がりの中でも分かるくらい優しかった。
「どうぞ」と腕を広げた彼女をしっかりと胸の中に抱き締める。聴こえるのは互いの心音だけだ。
しばらく居心地の悪くない沈黙が続いたが、俺の胸に顔をうずめた状態の彼女が今にも消え入りそうな声で問いかける。

「ダリューン卿は、離れたくないのに離れなければならなかったことはありますか」
「ああ、あったさ。………………あの御方は、少しお前に似ていた」

彼女の俺を抱き締める力が少し強くなった。

「辛いことを思い出させたならすみません。……でも、どうかもう少しこのままで」

俺をさらに強く抱き締める彼女は、ただ静かに、声も上げずに泣いていた。


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