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まほろばに誓う


長い廊下の突き当たりにある、自室の半分にも満たない小さな部屋。満足な防音設備も行き届いていない学校の音楽室で、最初にピアノに触れたのはいつだったのか。朱色の布をそっと捲りながら、ふと浮かんだ疑問が頭から離れない。
はっきりと思い出せないのに苛立った末、無意味だし下らない疑問だと自分自身に言い聞かせて考えるのをやめた。きっかけなんてどうでもいいし、ピアノを弾くのに理由なんかない。それに、明日またここでピアノを弾くかどうかもわからず、答えが出せないままなんだから。

譜面などなくても、頭の中に浮かぶのは、ただひとつの旋律。暗譜しきったそれと、鍵盤に落とした指とがピッタリ重なって、小さな部屋いっぱいに音が響き渡っていく。だがイメージしたものと相違ないはずの曲は、いつしか心に落ちる感情のまま、気持ち悪いだけの音の羅列になっていった。得体の知れない感情を、他の何よりも力強く、雄弁に語るように。


そこは、色とりどりの花と樹木が一面に広がる庭園だった。手入れの行き届いたそれを初めて見た時、どこがイングリッシュガーデンなのかと首を傾げた。むしろジャングルと呼ぶべき代物だと思ったが、口には出さなかった。
入れと言わんばかりの巨大なガーデンアーチをくぐると、視界が一気に狭まったのをよく覚えている。園路の左右は生け垣状の植物に覆われ、目の前の一本道はやたらと細く、おまけに先が全く見通せない。

あの時なぜ引き返さなかったのか、今でもそう思う。怖くないだとか大丈夫だとか周りの大人が言うもんだから、こんなもの怖いわけないだろうと答え、制止も聞かずに走り出してしまった。
何が怖くないだ、何が大丈夫なんだ、そんなこと言うよりも先に、ここが迷路だと説明すべきだったんじゃないのか。
おかしいと思った時にはもう、不満をぶつける相手は見当たらず、気付けば俺は、たった一人で巨大迷路をさ迷い歩くはめになっていた。

いくつもの角を曲がり、声の限りに叫んでも、見える景色は花と生け垣ばかりで楽しくもなんともない。趣味が悪い、二度とこんな所に来るもんか。ひときしりの文句を吐き出したその後に、誰にも見つけてもらえず、むしろ居なくなった事すら気付かれていないのかもしれないと、ふと頭を掠めた疑問。刹那、心の底から沸き上がってきた感情を、今でもよく覚えている。たった一人膝を抱え、上がりきった息はいつまでも楽にならず、走り疲れたその呼吸が、繰り返ししゃくれあがる喉に向かって、言い様のない嫌な味を送り込んできたことも。


「先輩、よくトラウマになりませんでしたね」

記憶が飛んで、いつかあいつが口にした言葉が頭の中にこだました。

「ははっ、おまえ馬鹿だな、それじゃまるで俺が迷路を怖がってたみたいじゃないか。あの時は子供だったから仕方ないにしても、今は平気に決まってるし、トラウマになんかなってない」

「うーん。わたしが言いたいのはそうじゃなくて」

いつか一緒に訪れた、植物園の入り口で。そうじゃなくて、の先にあいつが続けた言葉を思い出せない。けどこれだけは覚えている。


「いつかおまえをそこに連れて行ってやるから、自分の目で見てみろ。言っておくが、迷子になって泣いても俺は知らないからな」

「ひどいなぁ、もう。でもわたしは平気ですよ」

「なんで」

「だって先輩がいてくれるでしょ?一緒なら迷っても怖くないです、だから大丈夫」

そう言って、ふわりと微笑んだあいつの顔と、向けられた眼差しを何故だか直視できなくて、目を逸らしてしまったこと。「さっさと帰るぞ、ばか」と言って、再び美奈子に向き合えば、こちらをひたと見据えながら、「楽しみにしています」とあいつが答えたこと。彼女の瞳の奥に、眩しく瞬くものが見えたことや、軽い気持ちで言ったつもりの一言が、その瞬間に約束という、形あるものに変わった事を。


我に返ったその時、両手は空で停止していた。ピアノは余韻さえ残さずに、その機能の全てを奪われたまま沈黙している。

ペダルから足を離した時の音が室内に消えていくのを待ってから、俺はゆっくり立ち上がった。窓から差し込む光は夕暮れのそれへと変化していて、漆黒のピアノは全てを受け入れるように、深い輝きを放っている。


「そうじゃなくて、迷路って、ゴールがあるって信じるから入れるものでしょ?知らないうちに迷路にいただなんて、怖いじゃないですか。だからもし先輩が何かに迷うとき、その時のことを思い出すんじゃないのかな、って」

ああ、そうだった。

「怖いのは、ゴールが見えないからで、ゴールがあるかもわからないからで。分かれ道にきたその時、自分が前に進むのか、後退するのか、どっちを選んだって、その最初の1歩を踏み出すのには、きっとすごく勇気がいりますよね」

美奈子はこう言ったんだ。そして俺は答えた。深い意図もなく発したあの時の言葉が、今は胸に突き刺さるように痛い。

「前に行くしかないだろ、逃げたって何も始まらないんだから」


全てを思い出したその時、心の中で、もやが立ち込むように渦巻いていた感情が、静かに霧散していくのを感じた。そして残った感情は、ただひとつだけ。説明するまでもない。


『音楽室に来い』

鞄の中から携帯を取り出して、美奈子のアドレスを呼び出し急ぎメールを打った。日は落ちかけてはいるが、まだ間に合うかもしれない。もう揺らぐことのない確かな決意を伝えたかった、誰よりも先に、まずあいつに。


The end.


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