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「ぶはぁっ!」
『――――!』
絶望の淵に聞こえた人の息遣い、水面が荒立つ音が聞こえ、はっと顔を上げた名前は、ずぶ濡れのピアーズを見つけた。
「やっぱりな…」
目が合うと彼は自嘲気味に呟いた。
名前は痛みを忘れて起き上がり、無心で彼の元へ歩み寄る。
水に入ってばちゃばちゃと。茫然と見上げるピアーズの顔は涙で歪んでよく見えない。
「俺って信用ないなぁ…」
苦笑い。びしょ濡れに変わり果てた姿を一目みれば、あとを追って水に入ったのはわかる。
泣き腫らして尚泣き、名前が流す涙の粒を、呼吸を整えたピアーズは手で拭った。
『…ごめんなさいっ』
「違う。謝らなきゃいけないのは俺の方だ。俺の力不足だよ」
泣いた視線はどうしても俯きがちになってしまう。だからピアーズは名前に顔を上げてほしくて、涙を堪えて声を震わせる彼女の髪に然り気無く触れると、耳にかけた。
「通路はそんなに長くない。ゆっくり泳いだって1分もしないうちに向こうには着くよ」
『……泳げそうにないんです』
「自力で泳がせようなんて思ってないさ。俺にしがみついてもらうことにはなるけどね」
『…しがみつくっ』
「そう、ごめんね。そうしてもらう他ないんだ。なるべく早く抜けられるようするから」
名前は水に浸けた傷の痛みを思い出して俯いた。
果たしてあの痛みを伴いながら、息を止めることに集中できるのだろうか。
『…溺れそうで怖いですっ』
「………」
下唇を噛んで躊躇えば、無意識に握り締めていた拳をピアーズに取られる。
「…40…、いや、30秒…」
『……?』
「目を閉じて数えてれば、必ず陸にいるって、約束するよ」
そう言う彼に名前は自然と手を引かれて引き寄せられた。
広がる波紋。沈んでゆく体は腰から胸へとどんどん浸かる。
不安が過れば、彼は透かさず指先を絡め、長い睫毛を瞬かせた艶やかな瞳で名前の恐怖を打ち消した。
「お決まりの約束だ。…目を閉じて」
下りた瞼が暗闇をつくる。
向き合っていたピアーズが背を向けたのがわかった。
背負われていた時のように、彼に覆い被さって、力がうまく入らない腕を彼の首にまわす。
「息は吐くことだけに集中して」
無造作に繰り返す呼吸。
彼女の中で恐怖がぶり返してきた。
「行くよ」
―――――
展開が早すぎはしないか…?
心の準備はできていない。
止まれない空気と水に呑まれて名前は自分に嘘を吐いた。
待ってと言えずに沈んでしまった彼女の肺は、十分に膨らまないまま萎んでゆく。
こぽこぽ…。耳をくすぐる気泡の音。
水はなにも考えるなと、耳を塞いでいてくれる気がした。
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