07
彼の腕に包まれ守られて、彼女は必死にしがみつき、二人は速度を上げて奈落の底へ。
途中、――ガンッと鈍い衝撃をくらうと名前は彼の腕が途端に弛んだのを感じた。僅かに離れていく体。彼女は咄嗟に彼を掴んだが、短かくも長かった落下の旅は突然に終わりを迎える。
何も見えない。どれ程落ちてきたのかもわからない。終着点で受けた衝撃はこれまでとは比にならない強い痛みだったが、横たわる体を恐る恐る動かしてみると、なぜかどこにも支障はなかった。
ここへ落ちたとき名前はマットのような、クッションのような物に突っ込んだ気がした。手のひらに触れるのはビニール袋のような触り心地、さらに意識がはっきりしてくると吐き気を催す異臭に噎せる。名前は唸りながら体を起こし、手探りで触れていた彼の体を揺らした。
『すみませんっ…』
だが反応がない。
『………』
もう一度触れようとしたとき名前は足元に何かが当たるのに気がついた。手で触れてみると靴を履いたもう一本の足先が自分の下敷きになっている。おかしい、触り続けてみると見つけた足の付け根は起こそうとしている彼とは真逆の方向に伸びていた。つまりこの足は同一人物ではない。
『――――ッ!!!?』
そして見つけた片足は、脛から上の部分がないと気づいた名前は飛び上がった。
何が詰められているのか、ぐじゅぐじゅ鳴る足下は耐え難い腐乱臭が吹き上がる。泣いても静けさに響く唯一の音は自分の嗚咽。
より一層不気味さを増す空間に終止符を打つため、彼女は濡れて崩れた顔を手の甲で拭うと、勇気を振り絞って再び彼に手を伸ばした。どうかこれが彼であって…。
名前は死にたくないと、泣きながら指先で「彼」と信じる体をつつく。
『……ピアーズさんっ、』
仲間から呼ばれ、自分でもそう名乗っていた。
『…ピアーズさんっ…ピアーズさんっ……』
何度も彼の体を揺らして、この体が彼だと信じてすがる。
『ピアーズさんっ…!』
名前は出ない声を震わせ彼の名前を呼んだ。
―――――――ガッ!!
『―――ひッ!?』
狩られるように手首を掴まれれば、上げようとした悲鳴が喉に張り付く。つついていた体が勢いよく起き上がったのを感じると、叫ぶ間もなく一気に引き寄せられた。
「…どうか怖がらないでっ…!」
『!』
混乱に乱れるより先に声を聞いて彼だと分かった瞬間、安堵に全身の力が抜けた名前はぐったりと相手の胸に額を預ける。
「大丈夫…?」
大丈夫なわけないが、名前は今彼が生きている以上に心強く嬉しく思うことはない。
宥めるように彼女の背を撫でていたピアーズも悪臭に気付いて顔を歪め、イヤーライトのスイッチを入れる。この暗闇、どうやら自分が失明したわけではなかったと一安心も束の間…。
『――!』
光に反応してピアーズの胸から額を離そうとした名前は、彼の手にまだ胸に留まるよう後頭部を押さえ付けられる。
「…君、名前は?」
『…名前・苗字です…』
「OK…名前ね。知ってるかもしれないけど俺の名前はピアーズ。ピアーズ・ニヴァンス」
彼女も周りを見渡したいが、やはりピアーズからお許しが出ない。
「歩けそう?」
名前は素直に弱々しく頭を振る。
「そりゃそうだよな…」
ピアーズが参っているのはわかる。でも名前は本当に立てそうもなかったのだ。
「名前、これから移動するけど、俺が君を背負って歩いてもいいかな?」
こくん、彼女が呼びかけに応じて頷くと体がもっと深く抱かれる。
「……じゃあ、移動する前に一つ約束してほしいことがあるんだ」
『………?』
「何があっても絶対に目を開けないこと」
『…え?』
これには名前も思わず質問せずにはいられなかった。
『…ゾンビが近くにいるんですか?』
「いいや」
動揺するなというのが無理な話。なかなか頷けずに彼女が黙っていると、彼は唇を寄せたのか、気配と仄かな熱を感じて耳が火照った。
「…何があっても、俺が必ず君を守るから」
単純だが深みのある魔法の言葉。熱い吐息に名前は思わず身震いを起こしてしまう。
「…約束してくれる?」
ピアーズの問い掛けに彼女は十分に心の準備を整え、決心がつくと1つ首を縦に振って答えた。
「よし…。それじゃあ目を閉じて」
言われた通りに名前は瞳を閉じると頭を包むように押さえていたピアーズの手が離れていく。
背の備品の位置を少しずらしたピアーズは名前を背負い、背負われた彼女は傷を負っていない片腕で彼にしがみついた。
動き出した足音、前進する感覚、吐きそうになる激臭、僅かな揺れに反応する痛み。
視界を奪われた名前の正気を繋ぎとめるのはピアーズの存在だけ。
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