不動の勇者 | ナノ


それは突如、空から現れた。頭上を飛んでいた鳶が、雲も無く迸る雷に落とされたと思ったのも束の間。青く澄み渡る空を引き裂くようにして、それは姿を現した。

緑色の鱗に覆われた巨体。冒涜的に捻じれた強固な角。羽撃き一つで嵐を生む二対の皮翼。丸太のような四肢の先でギラリと光る鋭利な鉤爪。紫色の口を開いて呵々と笑うそれは、竜であった。


――邪悪竜ドラゴバニア。

マルディン将軍を襲ったのは、魔王オルド・ヴァルデマールに仕える邪竜族最強の戦士であった。


「クソ……! なんたってこんな所に……!」

「マ……マルディン、将軍……」

「フハハハハ!! ”王の守護者”と呼ばれる男もこの程度か!!」


”神霊樹”は悪しきを弾き、魔を退ける力を持つが、余りにも強大な力を持つものにはこれが通用しない。この森に降り立った時点で、彼の竜が自分達の手に負えるものではないことを悟ったマルディン将軍であったが、此処で退いては近くの村が危ういと、彼は怯える兵士達を鼓舞し、戦った。

尾の一振りで木々を薙ぎ倒し、吐息一つで辺りを焼き払う。そんな規格外の怪物を相手に、兵士達が一人また一人と倒れていく中、最後まで前線に立ち続けたマルディン将軍であったが、ついに彼も膝を付いた。

地面に突き立てた剣を掴む手は、少しでも力を抜けば滑り落ちてしまうだろう。そのまま倒れてしまえばと、霞む意識の外側で誰かが囁く。それでも、この命ある限り敗北に屈してはならぬのだと、マルディン将軍は気力一つで己を支える。

ただの人間にしては良くやったと評してやるべきか。だがしかし、わざわざ自分が赴く程の相手では無かったとドラゴバニアは鼻を鳴らして嗤った。


「貴様の首級、このドラゴバニアが貰い受ける!! その髑髏、オルド・ヴァルデマール様の杯にしてくれようぞ!!」

「マルディン将軍!!」


ぎらめく爪が、マルディン将軍の首を刈り取る。

誰もがそう思っていた。兵士達も、ドラゴバニアも、マルディン将軍も。だが、竜の腕が振り下ろされるより早く、彼の体は大きく仰け反り、後方へ吹き飛ばされた。


何が起きたのか、誰にも理解出来なかった。確かにそれを目の当たりにしていた筈なのに、現実を呑み込むことが出来ない。まるで白昼夢を見ているようだと兵士達が惑う中、辟易とした男の声が落された。


「たかが空飛ぶ蜥蜴如きで大騒ぎするなよ、”神霊樹”」


ライムグリーンの瞳が、木々を巻き込んで倒れた竜を一瞥し、煌々と光り輝く”神霊樹”を心底疎ましそうに睥睨する。

眼を離せばその瞬間に屠られる筈の相手も、彼にとっては注視するに値しないということか。相も変わらず、嫌になる程の強さだとマルディン将軍は眉を顰めながら笑った。


「グリゼルダ……」

「お前がビビるだけで、母さんが苦しむんだ。黙って生えてろ、クソ霊樹」


神族より賜りし聖樹になんてことを、と兵士達が開けっ放しの口を更に開いたのも束の間。倒れた際に巻き込んだ木々を吹き飛ばしながら、ドラゴバニアが身を起こし、怒りの咆哮を上げた。


「き、貴様ぁ……!! こ、このドラゴバニアの角をぉお……!!」

「ああ、悪いな。適当に投げ過ぎて狙いが逸れた」


見れば、ドラゴバニアがの頭を飾る角が片方、無惨に砕け散っていた。無論、先の一撃に因るものだ。

グリゼルダは、その頭部を吹き飛ばす心算で、家から持って来た剣を投擲していた。ドラゴバニアの背後、辛うじて巻き添えを喰らわずに済んだ木の幹に突き刺さるそれがそうだ。

何処にでも売っていそうな、粗雑な作りの鋼の剣。そんな物で、あの竜の角を砕いたのかと兵士達が瞠目する中、怒りに戦慄くドラゴバニアが翼を広げた。


「おのれぇえええ!! 人間風情が、よくもぉおおおお!!」


地面を蹴り、跳躍。そのまま遥か上空へと飛翔したドラゴバニアは、大きく口を開き、その咥内で火炎の渦を作り出した。

渦はうねりを上げながら、炎の玉へと形を変えていく。圧縮された竜の吐息。高密度に圧縮された魔力の塊。あれが地上に向けて放たれれば、辺り一帯、跡形も無く消し飛ばされるだろう。


――極小の太陽が落ちて来る。


兵士達が絶望に慄く中、グリゼルダはさてどうしたものかと辺りを適当に見回した後、マルディン将軍の前に突き立てられたそれを手に取った。


「マルディン、剣を借りるぞ」

「……好きにしろ」


彼に剣を手渡すことの意味を知りながら、マルディン将軍は刃を委ねた。

王都の名工に作らせた品だが、惜しんでいる場合ではない。それに、これ以上とない使い手に使わるのであれば剣も本望であろう。

先の戦いで、幾らか刃毀れしているが、グリゼルダにとってそんなことは些末な問題だ。剣など、柄があって刃があれば皆同じ。家から持って来た鈍らも、マルディン将軍の愛剣も、グリゼルダが手に取れば等しくただの武器でしかない。


「喰らえ人間!! 森共々、灰になるがいい!!」

「……あの辺りだな」


ドラゴバニアが火球を撃ち出すと同時に、剣の切っ先で狙いを定めたグリゼルダが腕を振る。
閃く刃は、地上から打ち上げられた流星の如く空を劈き、ドラゴバニアの火球を引き裂く。

風圧で千切れ飛ぶように消えた炎の先。そんな馬鹿なと言葉を失ったドラゴバニアの口の中に、投擲された剣が突き刺さった。


「…………か、ぺ」


剣は尚も勢いを失わず、ドラゴバニアの喉を突き破り、雲を吹き飛ばし、そのまま空の彼方へと消えた。

ぐらり。空中で傾いたドラゴバニアの体が、真っ逆様に落ちて行く。間も無く、地を震わせる程の轟音と共に、竜の骸が森の片隅に沈んだ。


「……空を飛ぶ相手は面倒だな。俺も魔法が使えれば楽なんだが」


今し方、竜を屠ったそれは魔法ではないのか。そう疑いたくなる光景に、兵士達は自らの頬や耳を抓んだ。


「け、剣を投げて、あの化け物を……?」

「あいつ、火を吹いてたのに……剣が、それを吹き飛ばして……」

「何だ、これは……さっきから俺達は何を見ているんだ……」


頭を抱えたくもなる。もう何度も目の当たりにしているが、自分も未だに信じ難い。

これが勇者と呼ばれる男の力。魔王を二度殺した者にかかればドラゴバニアも、まさに空を飛ぶだけの蜥蜴だ。何もかもが馬鹿らしくなる程、圧倒される。自分達が命を懸けても届かないものを、彼は害虫駆除の感覚で葬ってしまったのだから。


「よし。これで母さんの具合も良くなっただろう」


ドラゴバニアが討たれたことで、”神霊樹”も鳴りを潜めている。シェオルを苛む症状も緩和されたことだろう。となれば、こんな所にいる必要は無い。早く家に戻って、母の様子を見に行こうとグリゼルダは踵を返した。


「じゃあな、マルディン。剣ありがとう」

「いや……助太刀、感謝致す」

「礼なら母さんに言ってくれ。それじゃ」


ひらひらと適当に手を振って、グリゼルダは早足気味に森の奥へと消えた。


再び静寂を取り戻した森の中、取り残された一同は呑気な小鳥の囀りを聴きながら、暫し呆けていた。

悪い夢でも見ていたかのように、混迷した頭がじんわりと重い。竜にやられた傷のことなど忘れる程度に、謎の疲労感が堪える。兵士達は大地に身を投げ、倒れた木の上に腰を据え、揃って深々と溜め息を吐きながら、とうに見えなくなったグリゼルダの背を眺めた。


「……あれが、”不動の勇者”」

「何なんだ、あの強さは……あれは、本当に人間なのか?」

「ああ。ふざけたことに、あれは俺達と同じ、ただの人間だ」


彼は神族の血を継いでいる訳でも、伝説の剣に選ばれた訳でも無い。自分達と同じ、この世界の何処にでもいる、ただの人間だ。

もし、運命の歯車が一つでも欠けていたのなら、彼は力を手にすることも勇者になることも無かっただろう。

偶然の産物と呼ぶべきか、奇跡と称すべきか。全てはこの森から始まり、この森で終わるのだろうと、マルディン将軍は”神霊樹”を見上げた。あの日――初めてこの森を訪れた日のことを回顧しながら。


「魔王の娘に育てられただけの……な」

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