妖精殺し | ナノ
――魔術とは、己の内側に在る魔力を認識し、これを捻出するところから始まる。
喩えるなら、だだっ広い暗がりの中、手探りで蛇口を探し、水を出すようなものだ。
しかし、凡そ人間は、自分の中に魔力が存在していることを自覚出来ていない。どれだけ大きな魔力を持ち合わせていても、他者の言葉でそれを理解しても、体が魔力を認識出来ていないのだ。
魔力は血液と同じく、体内を循環している。これが当たり前のことであるが故に、人は自分の魔力を感じ取れずにいる。
まずは眼を閉じ、呼吸を整え、集中した状態で、己の内に語りかけるように、魔力の存在を探るのだ。
魔力の認識が出来れば、捻出は容易い。次頁の魔力感光シジルに手を翳しながら、魔力の認識と捻出に励むのだ。シジルが光れば、成功だ。
「とは書いてありますけどぉ……」
もう何十回と読み返したテキストの上に俯せ、春智は呻き声を上げた。
「第一ステップから難し過ぎませんかぁ、これぇぇ……」
「魔術文字の読み書きは早かったが、やっぱり此処で躓いたか」
園児でも出来る魔術文字読み書きテキストをマスターしてから、幾つかグリモアールの解読に成功し、自信がついてきた春智の心は、”猿でも分かる魔術基礎”という初心者向けグリモアールの第一項によってへし折られた。
魔力の認識と捻出を始めてから既に一週間が経過しているが、シジルが光る気配は皆無。今日も朝から励んでいるが、結果はさっぱり。
こうして毎日毎日、グリモアールとにらめっこしては徒に時間が過ぎ去り、何の成果も得られぬまま一日が終わる。その繰り返しによって、流石の春智も精神を擦り減らしているらしい。
此処まで弱音を吐かなかっただけ根性があると言えるが――と、隣で普通の文庫本を捲っていた化重は、机に沈んだ春智を適当に宥めた。
「まぁ、無理もねぇ。最初の魔力認識は魔術師家系の人間でも苦戦する。こればっかりは感覚勝負だからな。才能のねぇ奴は数年がかりになることもある」
「す、数年…………」
この作業を数年も続けるとは、修行を通り越して苦行だ。
想像するだけで卒倒しそうだと春智が顔を引き攣らせると、机の上に置いていたムーが髪の毛を齧って戯れてきた。毛先が傷む、と摘まみ上げようとしたが、枝毛だったので無罪放免とした。
ムーは心なしか、最初にこの部屋で見付けた時より、一回り大きくなったような気がする。
プシュケーが成長するには長い時間を要するとのことだが、ちょうどその成長の節目に当たったのか。それとも、ムーに何か変化が起きたのか。
それについて調べられるようになるのも、随分先になりそうだと指先でムーを突く春智に、化重は勾軒から渡されたクッキーを差し出した。
疲れた時には糖分補給。散漫になってきた集中力を戻すにしても、今日はここでお開きにするにしても、食べておけと目の前に置かれた皿から、春智は一枚、クッキーを手に取った。
今日のお茶請けは、オレンジとクリームチーズのクッキーだ。一口齧れば、甘過ぎず、さっぱりとした味わいが口の中に広がる。オレンジの清涼感が頭の中に詰まった停滞感を払い除けてくれるようで、少し気が楽になる。
これがまたコーヒーとの相性抜群。至福の時間だと、眉間に入っていた力が抜けたところで、春智はクッキーを一欠片、ムーに与えた。
プシュケーは自然界に発生している魔力や水分で生きているので、こうした食料を必要とはしていないのだが、物欲しそうにしていたので何となく分け与えてみる。
その小さな一欠片をふんふんと匂いながら、ムーはこれまた小さな口でクッキーに齧り付く。やはり、興味を持っていたようだ。
プシュケーが人間の生活に興味を示すというのも珍しい。ムーはこの大きさにして、既にかなりの知能を有しているのかもしれない。
気付けば化重も、春智と一緒になってムーを観察していたが、ほんの一欠片のクッキーがまるで無くならないので、やがて話を元に戻した。
「この辺りは、一般家系も魔術師家系もそう関係ねぇ。とにかく、根気強く続けろ。一回出来れば、後は自然に出来るようになる」
「むむ……自転車みたいですね」
「大体そんな感じだ」
感覚さえ掴むことが出来れば、その後は芋蔓式だ。春智が喩えた通り、魔力の認識は、補助輪無しで自転車に乗れるようになるが如く、一度出来れば当たり前に出来るようになる。
だから、此処で挫折してしまわぬよう、自分のペースでじっくりとやっていくべきだと化重は諭す。
「力まず、集中して続けることを意識しろ。自分が小さくなって、体の中を歩き回るイメージでやるといい。頭から爪先まで降りて行って、そこからまた昇って、手の方に向かってくような感じで回れ。それを繰り返していく内に、自分の中のイメージと、実際の魔力の動きが重なって、捻出に至るケースもある。一度蓋が開けば、これまでの苦労は何だったんだってくらい簡単だ。頑張れ」
「……化重さんも最初は苦戦してましたか?」
「いや。この辺りの初級魔術は二日でマスターした」
「んなぁ?!」
「俺は魔力の認識と捻出が、魔術を始めるより早くに出来上がっていたから、人より早く出来て当たり前だった。それだけのことだ」
「そんなぁ……」
何だかズルい、と咎めるような春智の視線を受け、化重は少しバツが悪そうに顔を顰めた。
自分が容易にこのステップを通過していたことに対して、ではない。その経緯について探られ兼ねないことを口にしてしまったことについてだ。
相手は知的好奇心の塊。一度気になったことはとことん追求しなければ気が済まない質。そういう相手を前に、中途半端な秘匿は良くない。自分にとっても、彼女にとっても。
化重は深々と溜め息を吐きながら、おやつの時間は終いだと皿の上に残ったクッキーを口に放り込み、話を押し流した。
「そら、集中しろ、集中。ムーも応援してんぞ」
「ムー」
「はぁい」
化重に言われたことを反復しながら、眼を閉じる。深呼吸をして、自分という存在に意識を向ける。
スタート地点を脳として、其処からゆっくり歩いていくイメージ。
喉を通って、胸の辺りで分岐に迷う。まずは利き手側から向かおうと、右へ進む。肩から腕へ、腕から指先へ。血の通り道に沿うようにして――と、血管の傍らに流れる何かを掴みかけたその時。
「ムムーーーーッ!!」
どんがらがっしゃん。
まさにそう表すに相応しい物音によって、春智の意識は外界へサルベージされた。
「…………あの、化重さん」
「……ああ。今ので集中しろって方が無理だな」