妖精殺し | ナノ
物音は下から響いてきた。恐らく、ストレリチアで誰かが派手に転倒したのだろう。
化重は、わざわざ確めに行かなくていいと言ったのだが、一度気になってしまうと調べずにいられないのが春智の性だ。
驚いて毛が膨張したムーを連れて、春智は物音の正体を確めんと階段を降りていく。
「大丈夫かい?」
「自分で立てる?」
「ええい、近寄るな! す、少し転んだだけのこと! 貴様らの手を借りるまでもないわ!」
その人は、今日も今日とて暇を持て余し、ストレリチアでお喋りに興じていた蔵骨と百花院に囲まれていた。
まるで、公園で走り回っていた最中にずっこけた子供と、偶々それを近くのベンチから見ていたお年寄りのような構図。相手は、子供というには随分と大きいのだが。
「転んでも泣かなくなったんだねぇ。えらいねぇ」
「よしよし。ご褒美に飴ちゃんあげようねぇ」
「要らんわ!! 糞!! どいつもこいつも、僕をいつまでも子供扱いするな!!」
温かい眼差しを向けてくる老人二人に目くじらを立てながら、辺りに転がる椅子を直していく青年は、春智とそう変わらない年頃だろう。
見るからに高そうな濃紺のベストに、グレーのスラックスを纏った長身痩躯に、陶磁器のような白い肌。太陽から作られたような輝かしい金髪と、嘘のように整った美しい顔立ちが特徴の美男子。
しかし、転んだ時にくっついたと思われるアモンの羽やホコリが頭に乗っている様が、その全てを台無しにしてくれている。
絶大なプラスと、途方も無いマイナス。イコール、ゼロ。よって、春智が受けた第一印象は、何だこの人。それに尽きた。
「……化重さん。あの物凄い綺麗な顔してるのに凄まじく残念なオーラが漂う人は」
「さっき話した、魔力認識に数年を要した才能のねぇ奴だ」
「其処ぉ!! 聞こえているぞ!!」
くわっと眼を見開く様は、今一つ迫力に欠ける。精一杯威嚇する猫を見ているかのようで、緊張感が持てない。
その破格の美貌が、怒りに歪んでも尚、美し過ぎる程に美しいのも一因かもしれない。
成る程。これは蔵骨達が構いたがるのも頷けるなと、春智が苦笑する中、青年はぷんぷんというオノマトペを飛ばしながら、此方を睨む。
「このアルベリッヒ・ヘクセベルク・アインスに向かって、残念だの才能がないだの……。貴様ら、覚悟は出来ているのだろうな!!」
「まぁまぁ、落ち着いてくだされ、アルベリッヒ様。いつものことじゃありませんか」
「いつものことだから問題なのだ勾軒ぃ!! 大体、貴様の教育がなってないからあのような」
「……偉い人なんですか、あの人」
「魔術師議会の最高機関……六芒星を構成する六つの名門魔術師家系が一角、ヘクセベルク家の次期当主だ。あんなんでもな」
「あんなんとか言うな!!」
魔術師を統括する魔術師議会。その頂点に君臨するのが、六つの名家。通称、六芒星だ。
青年――アルベリッヒはその六芒星を担う家の一つ、ドイツの魔術師一族ヘクセベルクの嫡子であり、次期当主である。これでも一応。
春智が野良なら、彼は血統書付き。その体には、由緒正しき名門の血と魔力が流れているのだ。才能は無いが。
「で、ヘクセベルクのお坊ちゃまがこんな所に何の用だよ」
「その如何にも早く帰ってくれみたいな顔を止めろ、妖精殺し!!」
「どうどう」
化重にあしらわれ、勾軒に宥められ、蔵骨達に微笑まれている様を見ていると、些か疑わしいのだが。しかし、身なりは上等だし、逐一立腹しているのも、育ちの良さから来る生真面目さに起因しているように思われる。
そしてやはり、その見目麗しい顔立ち。幼い少女が見れば、物語の世界から飛び出してきた王子様と思うだろう、指の先まで整った造形には、脈々と受け継がれてきた血筋の歴史と気高さが感ぜられる。
当人もそれを誇らしく思っているのだろう。クッキーと、砂糖とミルクたっぷりのコーヒーを差し出されたアルベリッヒは、玉座に腰掛ける王の如く、カウンターチェアに座り、長い脚を組む。
「そう、僕は誇り高きヘクセベルクの次期当主であり、六芒星として魔術師達の上に立つ使命を背負う男だ。故に、自ら市井に繰り出し、民の暮らしを巡視する王の如く、何れ統括する魔術師達の様子を見に来たという訳だ」
「回りくどいな。だから、何の用かって聞いてんだよ、一男(かずお)」
「…………かずお?」
言いたいことがあるならはっきり言えと、心底面倒臭そうな声で言い放った化重の顔を暫し見つめた後、春智は彼の視線をなぞるように首を動かした。
一男。昨今中々耳にしない、ザ・日本男児ネーム。とても、アルベリッヒ・ヘクセベルク・アインスと名乗った彼の名前とは思えぬ響きだが――と見遣った彼の顔は、憤懣と気恥ずかしさで真っ赤になっていた。
「き、貴様あああああああ!! その名前で呼ぶなと何回言えば!!」
「日本好きのおふくろさんが付けてくれた名前だろ。蔑ろにするなよ、アルベリッヒ・ヘクセベルク・一男」
「ぎにゃああああああああああ!!」
渾身の叫び声を上げながらカウンターに突っ伏し、いやいやと頭を振る様子からするに、どうやら彼の名前は、アルベリッヒ・ヘクセベルク・一男で間違いないらしい。
アインスと名乗っていたのは、一男をドイツ風にしようと考えた結果なのだろう。
確かに、アルベリッヒ・ヘクセベルクの後に一男は恥ずかしい。親日家の母親が、一番の男になってほしいという願いを込めたにしても、だ。
自分も男に間違われがちな字面の名前に不満を抱いていた時期があるので、彼の気持ちは分かる。そしてそれは恐らく、彼も同じだと、春智は煙草を吹かし始めた化重を見遣る。
「お前だって!! お前だって女みたいな名前のことを気にしているくせに!!」
「気にしてはいる。が、俺は自分の名前を偽ったことはない」
叶という可愛らしい響きの名前を不服には思えど、それを否定するような真似はしていないと化重は言う。
名前とは、命の次に親から与えられるものだ。其処に親の想いと祝福が込められているのであれば、程々に大切にしなければ罰が当たる。そんな顔で煙草を燻らせていた化重は、改めて、何用で此処に赴いたのかとアルベリッヒに問う。
「そんで、今日はどうした。落し物か? 失せ物探しか? 捨て猫の飼い主探しか?」
「ぐぬぬ……どこまでも馬鹿にしよって……」
恐らく、何れも過去にあったことなのだろう。
思い出して辟易とするような面持ちで紫煙を吐き出す化重に、アルベリッヒは拳を握り固めた後、これ以上虚仮にされてなるものかと腕を組み、上から物を言うポーズを取った。
「いいだろう。其処まで言うのであれば、僕自ら命じよう、妖精殺し」
「いや、面倒だから帰れ」
「聞け!! これはヘクセベルク家に関わる重要な問題なのだ!!」
用件を聞くまでもない。こいつが来る時は必ず面倒な仕事が持ち込まれるのだと、化重が虚空を見遣る中、アルベリッヒは地団駄を踏む。
その光景はさながら、大人に相手にされない児童のようで、蔵骨と百花院は「うちの孫を思い出すなぁ」「在哉も昔、こうして怒ってたなぁ」と和んでいる。
そんな温かい眼差しに苛まれながらも、アルベリッヒは、ヘクセベルク次期当主たるもの気高く在れと、凛と背筋を伸ばす。
「奇しくも、今回の案件……適任は貴様だ、妖精殺し。僕の依頼は、ある妖精の捜索と捕獲で」
「面倒だから帰れ」
「お願いします!! 最後まで聞いてください!!」
が、一向に話を聞いてくれない化重に、ついにアルベリッヒの心は鉛筆の芯の如くべきりと折れた。